男子車いすバスケットボール日本代表は、東京パラリンピックで銀メダル獲得という快挙を成し遂げた。その中心にいたのは、予選リーグの初戦でトリプル・ダブルを達成した鳥海連志(所属:WOWOW)だ。東京大会で最高と言える結果を残した鳥海だが、高校生で出場したリオパラリンピックを終えた際には、努力がダイレクトに結果につながらないもどかしさを感じ、競技を辞めようとした時期もあった。それでも一念発起し、たゆまぬ努力を重ねたことで素晴らしい結果を出した鳥海は、迷わずに次の目標へと突き進んでいく。
「Instagramのフォロワーが5万人まで増えました」
──あらためて、東京パラリンピックでの銀メダル獲得、MVP受賞おめでとうございます。反響がすごかったのではないでしょうか?
反響はたくさんいただきました。パラリンピック前はInstagramのフォロワーが2000人いかないくらいでしたが、5万人まで増えました。ここまでとは思っていなかったので、自分でもびっくりしました。
──一気に短髪になりましたが、何か気持ちの変化などがあったのですか?
坊主は昔にやったことがあって金髪坊主にしたかったんですけど、大会中は我慢しようということで、終わった開放感からすぐに坊主にしました(笑)。
──なるほど、我慢していたのですね(笑)。そんな大会で最も印象に残っている試合はどの試合ですか?
準決勝のイギリス戦ですね。僕たちはディフェンスで世界に勝つ、トランジションバスケットを遂行するということをずっと言ってきました。前半は相手のシュート確率に苦しめられましたが、後半はそれがチームとして一番分かりやすく表現できたので。
──トリプル・ダブルを達成したコロンビア戦ではないのですね!?
確率やリバウンドがどれくらいというのは試合が終わった直後は気にしますけど、試合中はスタッツはそんなに気にならないです。
──銀メダル獲得の快挙に加え、個人でMVP獲得と、東京パラリンピックはどんな大会になりましたか?
今まで、ずっと結果が出ていないのにメダルを取りますと言い続けることに対して、モヤモヤしていた部分がありました。「何言ってんだよ」と思うところが自分自身にもありましたし、世間も同じ思いなんだろうなと。言いたくないということもなかったし、言わされてる感もなかったですが、僕の意思で言ってはいるものの、これは言い続けないといけないんだろうなと思いながら言っていました。
そんなところから、しっかり結果を出したいタイミングで出せて、何よりホッとしました。家族やこれまでお世話になった人たちにやっと良い報告ができるというところも含めて、「ああ、良かった」と思える大会でしたね。
代表初選出も「将来性を見据えての選考と勝手に捉えていました」
──あらためて、車いすバスケを始めたきっかけを教えてください。
中学校が全員部活動に入りましょうという学校だったので、僕は1年の時にテニス部に入り、車いすではなく義足というか装具をつけて普通の生徒と混ざってやっていました。テニスコートの横が体育館で、当時の女バスの外部コーチの方が車いすバスケの審判をされている方で、その方にお誘いいただいて始めた感じです。近くのクラブチームに見学体験に行かせてもらったところからスタートしました。
──テニス部に入り、それまでもいろいろなスポーツをやっていたということですが、車いすバスケ一本ではなかったのですね。
そうですね、友達と遊びでサッカーや野球をやったりしていましたし。競技として、選手としてスポーツとかかわりだしたのは中学1年の時の車いすバスケットボールが初めてです。
僕の家族はバスケ一家だったので他の競技よりもバスケは好きだったんですけど、一選手として競技をするというところまでには至らなかったです。でも車いすバスケを初めて知ってからは自分も一選手として競技にかかわれると思いました。体験をした当時はまっすぐ漕げないし、車いす操作でカーブは遠心力ですごく転びそうになるし、そういう難しさに楽しみを覚えてやり始めました。
──当時からトップを目指そうと思っていたのですか?
最初から代表になろうと思っていたことはないです。クラブチームで1番になることを目標にやっていて、そこからジュニアの合宿に呼ばれたりする中でアンダーの代表があることを知りました。じゃあ、そこに選ばれるようになろうというところからどんどんステップアップして、目標も大きくなっていった感じです。
──当時は高校生でしたが、リオパラリンピックで代表に選出された時はどんな心境でしたか? それも快挙ですし、天狗になってもおかしくなかったと思いますが。
その通知を見た時はびっくりしましたし、うれしさもありましたが、単純に上手い選手が集まる大会に参加できることや、どれぐらい自分が通用するんだろうという、ワクワク感が一番強かったように思います。日本代表に入り、こんなに上手い人たちとやれるんだというところから、リオで世界トップレベルの選手とやれた楽しみはかなり大きかったですね。
当時は僕よりみんな上手かったですから、将来性を見据えての選考なんだなと勝手に捉えていました。代表選手なのにユニフォームを忘れることもあったし、遅刻をすることもあったし、僕はそんなにきっちりした人間ではないんですけど、その分、客観視していたいというのは昔からありました。