今野翔太、12シーズンを過ごした大阪エヴェッサを離れて新たな挑戦へ「伝えたいことが、あるんです」

今野翔太、12シーズンを過ごした大阪エヴェッサを離れて新たな挑戦へ「伝えたいことが、あるんです」

2020/06/08

今野翔太

2007年、ドラフト外で地元のエヴェッサに入団

4月末に大阪エヴェッサから、今野翔太との契約が満了したとのリリースが届いた。今野はプロデビューから通算12シーズンを、生まれ育った大阪でプレーしたチームの看板選手。事の経緯が気になり、本人に話を聞いている中で「伝えたいことが、あるんです」と、彼は言葉を発した。

「複雑な思いでしたがプロの世界では、よくあることです。とくにプロバスケは、短期間だけ在籍して移籍を繰り返す選手が多い。そんななかで、12シーズンも一つのクラブに在籍し続けられるのは稀なこと。僕以外にもそんな選手はそう多くはないと思います」

大阪学院大4年次に関西リーグ優秀選手に選ばれ、チームを初のインカレ出場にも導いたが、その名を全国に轟かせる選手ではなかった。それでも進路をプロ選手に定め、当時のbjリーグのトライアウトを経て、ドラフト外ながら2007年に地元の大阪に入団する。

キャリア初期はまだ、地元出身の期待の若手選手でしかなかった。1季目はチームのbjリーグ3連覇も経験したが、あれは彼にとって、なにもできなかった苦い思い出。

「あのシーズン、僕は何も貢献していません。先輩たちに、優勝を経験させてもらったようなものです。プロになりたてのころはなかなか試合に出られず、苦しい思いをしました。だけど環境に慣れて、自分をステップアップさせていけば、必ずここで通用する選手になれる。そう自分を信じていました」

その言葉を彼は、現実にした。3季目以降はほとんどのシーズンで50試合以上に出場するなど、大阪に欠くことのできない存在へと成長。27歳になり、中堅選手となった6季目の2012-13シーズンは、自らが望んでいたキャプテンに指名されるまでになった。

「この時には、大阪の在籍歴が一番長い選手になっていました。僕は地元出身だし、余計にこのチームを強くしたい気持ちが大きくなっていた。自分の置かれている立場がだんだんと変わってきて、キャプテンをやりたいと思っていた時に指名してもらったので、すごくモチベーションは高かったです」

しかしこの2012-13、特に前半戦は大阪にとって暗黒の、彼にとっては苦悩のシーズンとなった。

「このシーズンにヘッドコーチがセルビア人のゾラン・クレコヴィッチさんに代わって、外国籍選手は全員、日本人選手も3分の2近くが入れ替え。全く新しいチームになりました。だけど開幕前からヘッドコーチと選手間でコミュニケーションが上手く図れないなど、チームの雰囲気はすごく悪かったんです」

開幕4連敗を喫して、クラブは早々にクレコヴィッチヘッドコーチを解任。さらにプロでの指導経験がなく、いちチームスタッフだった人物を後任ヘッドコーチに据える異例の人事を敢行したことで、混乱はさらに加速した。

「ずっと勝てなくて、チームのムードは最悪でした。このシーズンは立ち上げから上手くいかず、ヘッドコーチが代わっても勝てないので、それがもっと高まった。僕はキャプテンとして何とかしようとしたのですが、先輩選手が多かったこともあり、情けないことにまとめきれませんでした。先輩はみんな良い人たちなんですけど、やっぱり勝てないことでフラストレーションが最高潮に溜まっていましたね。外国籍選手の入れ替えもありましたが、事態は好転しなかったです。チームは一つになれず、完全に崩壊していました。あの最悪の時期のことは、いつまでも忘れられません」

今野翔太

新天地で手に入れた「バスケットの新しい価値観」

普段はこちらの問いに快活に答える彼だが、このころは試合後にコメントを求めると伏し目がちに、絞り出すように言葉を紡ぐのが精いっぱいの様子が目立っていた。こちらの目には、キャプテンとして崩壊したチームをなんとかせねばと、苦闘する姿がありありと映っていた。

そんな苦しいシーズンだったが、後半戦に入ってチームに光明が差し込む。その光はほのかなものではなく、太陽のような輝きを放った。光源は、新ヘッドコーチに就任したビル・カートライト。マイケル・ジョーダンとともに、ブルズでNBA連覇に貢献したレジェンドが、チームを一変させた。

「ホントに、一気に変わりました。外国籍選手が上官に従う軍人のように、ヘッドコーチに従順になったのも印象的でしたね。戦術はすべて変わりましたし、選手起用の仕方も、声の掛け方もすごく絶妙。チームにまとまりが出て、後半戦は9連勝もした。あの時のメンバーが悪かったのではなかったことが、証明できました」

カートライトヘッドコーチとの出会いは、彼にとっても大きな転機になった。これまでのシーズンは前線にボールを運んだり、攻撃の組み立てに参加するなど、時のヘッドコーチの求めに応じたプレーを体現してきた。とはいえ、今野は大阪学院大4年次のインカレで1試合30得点以上を叩き出すなど、もともと得点能力がある選手。カートライトヘッドコーチは早々にその能力を見抜き、本来持つ力を引き出せるように手を差し伸べた。

「僕のキャリアの中で一番飛躍したのがこの時でした。カートライトヘッドコーチは、来た時から僕のオフェンス能力を見抜いてくれて、ボールを持ったら全部アタックしろと。それですごく得点が獲れるようになって、かなり自信がつきました」

実際にこのシーズンの終盤、3月9日のライジング福岡戦で、当時のbjリーグで日本人1試合最多得点歴代2位となる36得点をマークと、得点力の向上を数字で見事に示した。一方でチームは後半戦に巻き返しながらも、最終的には史上初の負け越しを記録。だが選手たちは、後半戦のチームに確かな手応えを得ていた。少なくない選手が同じメンバー、同じヘッドコーチで来季にリベンジをと望んだが、そうはならなかった。

大阪は翌シーズンを迎えるにあたって、外部から球団社長兼GMを招聘した。この人物はチームの刷新を図り、ヘッドコーチの交代と外国籍選手を含む選手の大幅な入れ替えに動く。今野は新チームの構想に入っていた数少ないうちの一人で、本人も残留を望んでいた。しかし社長兼GMとの交渉は、自分がチームにとって必要であることを感じさせない、冷めたものだった。やるせない思いを胸に抱えながら、彼はフリーエージェントを宣言。そして、信州ブレイブウォリアーズへと移籍する。

「暮らしたのも、プロでプレーしたのも大阪だけだったったので、離れることに不安はありました。でも当時の河合竜児ヘッドコーチが、僕をポイントガードで使いたいと熱望してくれたんです。それを聞いて『これは面白いな』と思い、信州に行くことを決意しました」

新天地で求められたのはボールを運びながら、得点に軸足を置くプレー。それに対して前季に開花させた得点能力にさらに磨きをかけ、シーズンを通じてキャリアハイの1試合平均11.5得点の結果で応えた。

「得点を狙いにいく仕事がメインで、なおかつ上から攻められるので、かなりやりやすかったです。自分自身のプレーの幅が広がったし、バスケット自体が楽しかった。あのシーズンは、自分にとってバスケットの新しい価値観を手に入れた感じでしたね」

今野翔太

復帰した大阪で迎えた『Bリーグの時代』

翌2014-15シーズンも信州は残留を要請したが、今野の側にやむを得ぬ事情があり、離れざるを得なくなっていた。その時に、大阪から復帰のオファーが届く。

「復帰に際しては、フロントスタッフも代わっていたので、わだかまりのような気持ちはなかったですね。選手もガラっと変わっていて、復帰したというより、新しいチームに入った気持ちで、自分にとっては新しい挑戦だと思っていました」

復帰した大阪で彼は、前季の信州で確たるものとした得点能力を遺憾なく発揮する。このシーズンは前季を上回る1試合平均12.4得点をマーク。

「あのシーズンは、完全に自信をつけている状態でしたね。当時の東頭(俊典)ヘッドコーチは若かったですが、すごく勉強されていて、得るものが多かった。僕がボールを運んできてからのプレーや、上から仕掛けるプレーを作ってくれて、すごくやりやすかった。僕自身のプレー面でも、信州時代以上にアグレッシヴでしたね。それも、信州で得た経験があったからこそだと思います」

ここからオフェンシヴな面を強調したプレースタイルを確立するかと思えたが、東頭ヘッドコーチに代わって2025-16シーズンから大阪の指揮官に就いた桶谷大ヘッドコーチとの出会いが、彼のバスケットに新しい世界を開いた。

「オケさんが琉球でヘッドコーチをされていた時から、ずっと一緒にやりたいと思っていたんです。大阪に来られることが決まって、すごく興奮しました。オケさんは、人としてしっかりした哲学や考え方を持っている方。そういう気持ちの面で学ぶことがすごく多かったし、戦術、戦略も素晴らしいものを持っていた。知将というんですかね。すごく頭が良くて、引き出しが多かったです」

それまでの彼は、感覚的にプレーしていたのだと言う。

「そんな僕に、バスケットの知識をどんどん広げてくれた人ですね。オケさんに頭の中を育ててもらい、もっと考えてバスケットをプレーするようになって成熟していった。プレーヤーとしての僕は、オケさんで出来上がったと思います。あの経験がなければ、身体を動かすだけの選手で潰れていたかもしれないですね」

桶谷ヘッドコーチから考えるバスケットを吸収したことは、ディフェンス能力の向上に表れた。そうして彼は、また新しい能力を開花させる。桶谷ヘッドコーチが就任して、2季目の2016年にBリーグが開幕。このシーズンは序盤からディフェンスでチームに貢献し、守備能力への評価も高めていた。そんな中、シーズンが進むごとに故障者が相次ぎ、窮余の策ではあったがゴール下に近い4番ポジションで起用され、相手の外国籍選手や帰化選手とたびたびマッチアップする。体格に優る相手にも粘り強く食らいつき、本来のポジションに戻っても日本代表級の選手たちを苦しめた。そうするうちに、いつしか『エースキラー』の異名が付けられるまでになった。

「オケさんの時にディフェンスマンとして評価してもらえるようになりましたね。もう少し若ければ、日本代表も狙えるかと思いましたが(笑)。あれがあったから、オフェンスもディフェンスも、どっちもやれるようになった。自分にとってはとても大きなことで、すごく感謝しています」

今野翔太

プレースタイルを変えて成長常に全力でプレーしてきた結果

主にボール運び役を担いながらも、プレースタイルが定まらなかった若手期。そこからスコアラーとして飛躍した中堅期を経て、ベテランになってディフェンダーとしての評価を得た。時代ごとに、プレースタイルが変わる選手は珍しい。

「常にヘッドコーチに求められることを追求していった結果ですね。僕の考えは、ヘッドコーチが求めるものを表現するのがプロ。まずは、ヘッドコーチに求められたことをする。そのプラスアルファで、自分のオリジナリティを出す。そういう考え方なんです」

長所は素直であり、勤勉であること。その時々のヘッドコーチの求めに応じて、自らをアジャストさせてきた。求めを表現しようとした日々の努力は表に現れずとも、真っ直ぐに応え続けたことが自らのプレーの幅を広げることになった。彼の成長曲線がベテランの域に達してから右上を指している所以は、この実直さだ。

昨季は新型コロナウィルス感染拡大の影響で、シーズン途中に打ち切りとなってしまった。大阪は初のチャンピオンシップ出場も現実的だっただけに、悔しい思いはひとさら強い。彼も「やり残した思いはある」と語るが、現実的にはその「やり残し」を愛した大阪で晴らす機会は絶たれてしまった。

「僕は在籍が長いのでブースターさんやスポンサーさん、クラブのスタッフの人たちもみんな、ずっといるものだと思っていたように思います。だけど僕は、そう思っていなかった。常に考えていたのは、自分を一番評価してくれるチームでプレーすること。他のチームから移籍のオファーがあったこともありましたが、いつも大阪の評価が一番だった。そうして毎年毎年が勝負だと、覚悟してやってきました。大阪でこれだけ長くプレーできたのは、たまたま運が良かったのかもしれませんが、常に全力でプレーしてきた結果だと思います。そこは自信がありますし、堂々としていたい」

あらためて、12シーズンもの長きに渡って在籍した、地元のクラブでの時間を振り返って語る。

「入ったころは右も左も分からなかったのに、ここでプレーだけじゃなく社会を学び、人間として成長させてもらいました。自分を育ててくれたクラブですし、感謝の気持ちは年々強くなっていました。選手としてだけじゃなく人間として成長できたから、12シーズンも大阪でプレーできたんだと思います。チームを離れることになりますが、クラブはもちろん、ここで出会った大好きな大阪のブースターさんやスポンサーさんに、僕の感謝の気持ちを伝えておきたいんです」

そして最後に。バスケットマンとして、大阪にかかわるすべての人たちにメッセージを残す。

「幸いに昔から身体は強く、今もバリバリ動きますからね。大阪と対戦することになれば、その時は全力で倒しにいきます!」

大阪のエースプレーヤーを、違うユニフォームを着た対戦相手の今野がシャットアウトする。そんな場面が訪れれば、今野に思い入れを持つ者たちは、愛あるブーイングで迎える。それが、正しい作法ではないだろうか。

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