1985年1月29日生まれ、大阪府出身。洛南高3年でウインターカップ優勝、慶應大2年でインカレ優勝。国内リーグでは新人王、2年連続MVP始め多数の個人賞に輝く。2004年に代表に加わり、2006年の世界選手権に出場。2010年にはティンバーウルブスの一員としてサマーリーグに参加した。弟譲次とともに代表歴12年を誇る日本の大黒柱。
日本代表の課題と向き合い続ける「ゴール下の主役」
アジアで、さらに世界で戦う日本の最大の課題はリバウンドだ。それはこれまで代表チームを率いた多くの指揮官たちが違うことなく口にしてきた『永遠の課題』とも言える。竹内公輔は初めてJAPANのユニフォームを着た大学2年生の時からこの永遠の課題と向き合ってきた。
「日本のウイークポイントと言われるインサイドをいかに強化できるか。少しでも弱みにならないよう必死で頑張ってきました。もちろん、今も必死で頑張っています」
国内では押しも押されもしないゴール下の主役。アイシンシーホース三河に入団した年にいきなりブロックショットリーダーに躍り出ると、その後も合わせ3年連続の王者に輝いた。リバウンド部門でもまた然り。居並ぶ外国籍のビッグマンたちと競り合いながら、毎年必ず上位ランキング入りを果たす。
「ブロックショットとかリバウンドとかいうと、なんか派手なイメージがありますが、さぼらずブロックアウトをしたり、ポジション取りに身体を張ったり、やっていることはすごく地味なんです。その地味なプレーをコツコツ頑張ることが自分の仕事、それは今までもこれからも変わりありません」
だが、本人の弁とは裏腹に、洛南高校から慶應義塾大学、アイシン三河そしてトヨタ自動車アルバルク東京と各カテゴリーのトップチームでプレーし、優勝とともに数多くの個人賞も獲得してきた竹内には、やはり華やかなイメージが付きまとう。常に日の当たる場所で大声援を浴びてきたような、日本のセンターとして揺るぎない王道を歩き続けてきたような──。
それだけに2年前、彼が移籍先に広島ドラゴンフライズを選んだことは少々意外だった。広島ドラゴンフライズは日本バスケットの一時代を築いた佐古賢一がヘッドコーチに就任。注目度は高かったが、これから土台造りが始まる新規チームであることに変わりはない。佐古の秀でたリーダーシップは、かつて日本代表やアイシン三河でともにプレーした竹内にとって魅力の一つだったに違いないが、チームとしては未知数、中心となる若手選手たちの力も同様に未知数だった。
「一言でいえば環境がガラッと変わりました。プレー一つにしても今までなら周りの選手が当たり前にできていたことができなくて、正直ストレスが溜まることも多かったですね。『おまえら、そんなことも分からへんのか、高校や大学でなに習ってきたんや』みたいな(笑)。自分が教えないとダメなことも沢山ありました」
だが、決して悪いことばかりだったわけではない。
「もちろんいいこともありましたよ。自分が(年長者として)我慢してチームをリードしていく経験もそうですが、やっぱり一番良かったのは若いやつらが純粋にうまくなろうと頑張っている姿を見て刺激を受けたことです」
様々な経験をする中で身に着いた「ベテランの余裕」
もともと竹内は自他ともに認める『親分肌』だ。後輩たちの面倒見も良く、若い選手たちからは兄貴のように慕われている。創設1年目にして初めてのオールジャパン(全日本総合選手権大会)で達成した準優勝も、『頼りがいのある兄貴』の存在があってこその快挙だった。これまで多くの栄誉を勝ち取ってきた竹内にとっても、王道から一歩外れたチームで手にした銀メダルはひと味違うものだったのではないか。
ベテラン選手としてチームを俯瞰すること、自分の当たり前がみんなの当たり前ではないと知ること、その中で若い力をすくい上げていくこと……。「いろんな意味で良い経験ができたと思います。自分の中のこれまでと違った部分を成長させることができたかもしれません」
一見マイナスに見えることも、長い目でみればプラスに変わることがある。若いチームの中で苦労したこともその一つ。また、昨年のプレーオフ(NBL2014-15シーズン)でアキレス腱断裂の大ケガを負ったこともその一つだ。
負傷した時点で彼のシーズンは終了し、日本代表チームからも離脱。OQT(オリンピック世界最終予選)出場を懸けたアジア選手権の出場も不可能となった。仲間たちの奮闘を日本で見守るしかない無念さ、ケガを負った自分に対する忸怩たる思い……。
だが、今振り返れば、それも含めて1年近くコートを離れた時間は「自分の将来やバスケットやいろんなことを考えるいい機会になりました」と言う。
「当時はコービー(ブライアント)の記事をよく読んでいました。同じアキレス腱断裂をやったという共通点もあったし、彼の発言、生き方はすごく勉強になった気がします。これからバスケット選手としてさらにベテランの域に入っていく自分と重ね合わせてみたり、そういうことをゆっくり考えられる時間を持てたのは良かったと思います」
ケガをしたからこそ改めてコンディション作りの重要性に気づくこともできた。不可抗力とは言え、普段から入念なストレッチを行うことでケガを避ける、あるいは軽くすることはできる。「やるべき準備をしっかりやるということですね。大きな大会が控えていればそこに向けてコンディションを整えていく大切さも再認識しました」
今回の代表メンバーが所属するチームでプレーオフ進出を逃したのは広島ドラゴンフライズのみ。よって竹内だけが一足早くオフシーズンを迎えることになった。「チーム専用体育館がないため、シュート練習もできず、フィジカルコンタクトができたのも1カ月ぶりぐらい。候補選手の中では自分のコンディションが一番悪いんじゃないかと思っています」
だが、そこは幾多の大きな大会を経験してきた実績がモノを言う。「自分流の調整の仕方は確立しているので、それほど心配はしていません。5日から1週間で仕上げたいと思います。OQTはベストのコンディションで臨めるようにしないと」。そう答える顔にはベテランの余裕がのぞいた。
「31歳になっても若い選手には負けません」
OQTは竹内にとっても2006年のFIBA世界選手権以来10年ぶりの世界の舞台だ。「10年前はチームで一番下っ端だったし、自分のプレーが通用せず何もできないまま終わってしまいましたが、今回は違う。いろんな経験を積んだことが自信になっています。『俺は今まで数々のことをやってきたんやから、おまえには止められへん!』みたいな。これ、天狗になってるのとは違いますよ(笑)。良い意味で自信が付いたということです」
その竹内に長谷川健志ヘッドコーチが求めるのは少なくない。「リバウンドはもちろんですが、あのサイズで走力がある彼の強みも生かしてほしい。ランニングプレーもできるし、ペイントにちょっと離れた場所からのスポットショットもうまいので、そのあたりの得点力にも期待しています。いずれにせよインサイドの柱であることは自他ともに認めるところ。あとは彼が持つ経験値を存分に生かしてもらいたい」
いかに207cmの竹内をもってしても、ヨーロッパ勢の強力なインサイド陣に競り勝つのは至難の業だ。本人もそこは承知しており、「本番では自分のマークマンを外におびき出さして勝負しないと厳しい。そういうオフェンスを効率良くやっていくことで勝機も生まれると思います」と語る。
「世界にチャレンジできるチャンスなんてなかなかあるものじゃありません。こんな素晴らしい経験ができるチャンスは滅多にないので、ものすごく楽しみです。日本のために頑張るのはもちろんですが、自分のためにも頑張りたい。自分がもっとうまくなるために頑張りたいですね」
思えば、竹内兄弟が揃って代表チームに入った12年前、「この2人がいるうちが日本のチャンス」と言われた。いや、言われ続けてきた。「そうでしたよねぇ」と話を振ると「そうでしたねえ」と竹内は苦笑いする。
だが、それはすぐに真顔に変わった。「大丈夫ですよ。31歳になっても僕は若い選手には負けません。絶対に負けないと思ってやっていますから」。返ってきたのは思いがけないほど力強い言葉だった。なるほど、これがみんなが言う『頼もしい兄貴』の顔なのだ。