文=松原貴実 写真=野口岳彦

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 田中大貴(たなか・だいき)
1991年9月3日生まれ、長崎県出身。スマートな風貌に似合わぬ当たりの強さと粘りのあるディフェンスから、プレーの引き出しの多いオフェンスへとつなぐBリーグトップクラスのオールラウンダー。抜群の安定感を備え、アルバルク東京のエースとして君臨する。

「先生、テストに出るとこだけ教えてください」

九州には(福岡大学附属)大濠とか、福岡第一とか、延岡学園とか、強豪校が沢山あります。けど、自分は長崎県を出てそういった強豪高校に進むだけの実力はないと思っていました。長崎西高校に進んだ理由の一つは、もともとウチの中学の先生と長崎西の先生が知り合いだったことです。そのつながりで先輩も進学していたし、県内の高校に進むと決めた時点で自分の中には長崎西しかなくて、途中から練習にも参加させてもらってました。

長崎西は県下でも有数の進学校ですが、年に2人だけ『特別推薦』で入ることができるんです。いわゆるスポーツ推薦ですが、自分はその一人でした。入学後はバスケット部の先生の家の近くにある寮に引っ越して、まあ寮といっても普通の一軒家を借り上げた感じなんですが、そこに同じ推薦枠で入ったバスケ部の先輩たちと暮らすわけです。当時は自分を入れて5人でしたね。

朝起きると先生の家まで朝ごはんを食べに行って、先生の車で学校まで行き、授業を受け、部活をやり、歩いて帰るという毎日でした。夕飯も先生の奥さんが作ってくれるのでそれを食べて、あとは先輩たちとワイワイやって、結構自由な雰囲気だったので楽しかったですよ。ただ勉強はむちゃくちゃ大変でした。もうこれは今までにないぐらい苦労しましたね。周りは東大、京大、九大を目指して入学してくる生徒ばかりだから、最初から全然レベルが違うわけですよ。ウチの学校には1時限目の授業の前に0限目というのがあって、勉強ができる子もできない子も関係なく全員で補修を受けるんです。0時限ってすごくないですか(笑)。

成績が悪かったので、先生から「その日やった勉強をまとめたものを持ってこい」と言われて、毎朝職員室に提出しに行ってました。テストの時は上を目指そうなんていう気持ちはさらさらなくて、恥ずかしい話ですけど、いかにして赤点を脱するか、それだけが目標でした(笑)。

テストが近づくとバスケ部の先生が若い数学の先生や英語の先生を寮に呼んでくれるんですよ。言わば僕たち5人のための特別補習ですね。それでもなかなか追いつかなくて、最後は「先生、テストに出るとこだけを教えてください」と、懇願したりして(笑)。さすがにそれは無理でしたけど、テスト前はだいたいそんな感じでしたね。まあ僕らが輝くことができたのは体育祭の時ぐらいだったと思います。

「メニューのほとんどがディフェンス」の日々

進学校ということもあり、部活の時間は1時間半と決められていました。どんなに遅くても19時半には学校を出るという決まりがあって、その短い時間にどれだけ効率良い練習ができるかが重要でした。当然ですが、バスケ部には一般入試で入ってきた生徒もいて、成績を聞くと普通に「オール5」と答えるヤツが珍しくないんです。だから、と言ってはなんですが、技術云々の前にみんなバスケの理解力が高い。効率の良い練習がどういうものか分かっているというか、やっぱみんな賢いんだなあと、変なところで感心したのを覚えてます。

どんな練習をしていたかというと、メニューのほとんどがディフェンス。オフェンス2に対してディフェンス8ぐらいの割合でしたね。基礎的なことから始まり、毎日、毎日ディフェンスの練習。今の自分を見ると、そこで培われたものは大きかったと思います。そこで培われたもので今もやってます(笑)。

ウインターカップは3年連続出場しましたが、インターハイに出られたのは2年の時だけです。そのインターハイ出場を決めた県予選は今でも忘れられませんね。長崎のインターハイ予選はベスト4に残ったチームが総当たりで優勝を競うことになっていて、最終日を前にした時点でうちの順位は2位でした。インターハイに出るためには最後の試合に10点以上、正確な点数は忘れちゃいましたが、十何点つけて勝たなきゃならないという厳しい状況だったんです。

でも、試合終了のブザーが鳴った時、ウチのリードはぴったりその十何点。まるでドラマみたいな勝利でした。学校からも大勢の人が応援に来てくれて会場は最高に盛り上がって、本当にうれしかったですね。その時のチームには力がある先輩たちがいて、2年生の自分はそこに混じって出させてもらっていました。

初めて経験したインターハイは緊張しましたが、自分が通用する手応えも感じて、木屋瀬中学に全く歯が立たず衝撃を受けた中学時代とは違って、自分もやれるんじゃないかという自信が生まれました。実際その大会では比江島慎(シーホース三河)がいる京都の洛南と対戦し、その年のウインターカップでは宮城の明成とも競り合い、いずれも勝てはしませんでしたが、公立高校でもやればできるんだと、自分のモチベーションが上がりました。

全国を目指す自分と周りの温度差に悩んだ1年

ただ本当に苦しかったのはその後です。力のある先輩たちが卒業して一気にチーム力が落ちたこともありますが、時期的に受験モードに切り替える者も出てきて、全国を目指す自分と周りの温度が次第に違ってきているのを感じました。インターハイ出場を逃した時はキャプテンとしての責任も感じたし、前の年につかんだ自信も消えていくようで、このままバスケを辞めてしまいたいと本気で考えました。

バスケを辞めたいと思ったのは後にも先にもあの時だけですが、それぐらい気持ちが追い詰められてものすごく苦しかったです。だけど、先生の助言もあってもう一度頑張ろうと気持ちを切り替えることができました。最後のウインターカップ予選を勝ち抜いて出場切符を手にできた試合は、2年のインターハイ予選とは違った意味で自分には忘れられないものとなりました。うれしいのはもちろんですが、どこかでものすごくホッとしたのを覚えています。「ああ、辞めなくて良かった」、「バスケットを続けてきて良かった」と心の底から思いました。

中学3年の夏に175cmだった自分の身長は高校で20cm近く伸びました。選手としても身長に比例して成長できた3年間だったと思います。進学校ゆえの大変さはあったし、悩んだり苦しんだりすることもありましたが、今思うのは「しなくてもいい経験は一つもなかった」ということです。いろんな友達と出会えたことも含め、充実した高校生活でした。自分の背番号『24』は長崎西の『西=24』。そこに自分の高校3年間への思いがあります。

田中大貴が語るバスケ部時代
vol.1「のどかなバスケ人生のスタートと『上』を目指すきっかけ」
vol.2「背番号『24』は、母校長崎西の『西=24』」
vol.3「将来なりたい選手をイメージして、一歩ずつ」