9年目の3.11、仙台89ERSの阿部翔太は津波被害を受けた石巻出身「皆さんのためにもB1昇格を」と誓う

9年目の3.11、仙台89ERSの阿部翔太は津波被害を受けた石巻出身「皆さんのためにもB1昇格を」と誓う

2020/03/11

阿部翔太

仙台89ERSのルーキー、阿部翔太は一風変わった経歴の持ち主だ。大学卒業後、勤めていた銀行を退職してプロの世界に挑戦したのが2018年夏のこと。仙台の練習生として1年を過ごし、プロ契約を勝ち取った。迎えたプロ1年目、開幕当初こそプレータイム確保に苦しんだが、限られたチャンスで必ずハードワークする姿勢で信頼を勝ち取り、今ではB1昇格へと突き進む仙台の欠かせない戦力となっている。そんな阿部は東日本大震災の津波により甚大な被害を受けた、宮城県石巻市の出身。9年目の3.11をプロバスケ選手として迎えた阿部は、どうにかして復興の力になれないかと考えながら日々を過ごしている。

ウインターカップでの躍進、そして東日本大震災

僕は家族全員がバスケットをやっているバスケ一家の出身です。兄がミニバスに通っていて、気がつけば僕も両親と一緒に顔を出していたし、見に行っているうちに気付けばバスケットを始めていました。小学校の時からちょっと身体は大きかったですけど、背が伸びたのは中学生の時です。中1から3年間で170cm、178cm、185cmと伸びていった感じです。

高校は東北学院です。当時から明成は強かったですが、僕らの1つ上の先輩たちが東北学院中で全中ベスト8に入っていて、それで強くなるという予感を持ちながら入学しました。高校2年の時にウインターカップ初出場、これは明成がインターハイで準優勝して、宮城県の枠が1つ増えたおかげです。

でも、学院は毎年のように明成と競っていました。今アルバルク東京で活躍している安藤誓哉さんがいる明成に、いつも負けても1桁差でしたし、枠が2つになれば自分たちが当然ウインターカップに行くものだと考えていて、実際にそうなりました。

当時はセクシーバスケットボールなんて言われることもあったんですが、すごく特徴あるスタイルというわけではなかったです(笑)。初出場のウインターカップでベスト16になり、その時すでに引退せずに残っている3年生は数人しかいなくて、僕らの代で出ている主要メンバーも増えていたので、やれる感じはありました。実際、東北大会で優勝したりと結果も出ていました。

ですが、間もなく3年生になろうという2011年3月11日、東日本大震災が起きました。バスケどころではなくなりました。

阿部翔太

被災者となり、石巻の実家に戻れない日々

東北学院はキリスト教の学校で、礼拝堂という全校生徒が入ることのできるホールがありました。3年生になる年だったので、そこに生徒を集めて受験向けの小論文の授業をやっていたと記憶しています。そこに揺れが来ました。震度6強でしたが、東北学院は周りが田んぼで囲まれていて地盤が緩いのか、とにかく相当揺れました。もちろん、僕にとっては今までに経験したことのない揺れで、すぐに校庭に避難しました。

その時点では校舎の一部にヒビが入っていたり、遠くで火事が起きているのが見えましたが、その後に津波が来るとは思っていませんでした。ただ、僕は仙台市内にある東北学院にいたので、津波は経験していません。まだバッテリーが残っていた友達の携帯電話のワンセグで「津波が来ている」という情報は見ました。そこから充電が切れてしまい、その後の被害状況は新聞でしか知ることができませんでした。

僕は片道1時間から1時間半かけて、石巻から電車で通学していました。地震で電車は止まっているし、電話も繋がらず、どうしようもない状況です。その日は学校に一泊し、次の日に仙台に住む知り合いが迎えに来てくれて、その方にお世話になりました。最初の1週間は小学校の避難所で、その後はその方の家にしばらく泊めてもらいました。

新聞では家のすぐ近くの高校まで津波が来たと書いてあるし、両親の職場は石巻魚市場という海の目の前だったので、もう死んでしまったのではないかと本気で考えました。親と連絡が取れ、無事が分かったのは震災から1週間後のことです。結局、3月28日まで石巻に戻ることはできませんでした。

電車の復旧の見通しが立たないので代替でバスが出ることになり、ようやく石巻に帰れたのですが、自宅は床上50cmぐらいまで浸水していて、中は泥だらけ。1階は到底住めるような状況ではありませんでした。床をフローリングに張り替えて落ち着いたのは夏も終わる頃だったと思います。家にいてもどうしようもないので、そこからは仙台市内に下宿して高校に通いました。

阿部翔太

仙台89ERSとの練習試合がプロ挑戦のきっかけに

震災後、チームの練習もすぐには再開できず、近くの榴岡公園で個人練習をしていました。不安もありましたが、それでもインターハイに出ることができたのは震災までに東北大会で優勝して自信をつけたり、そういった積み重ねがあったからだと思います。3回戦で沼津中央に負けましたが、東北学院はインターハイ2度目の出場で、1回目は初戦敗退だったので、それなりに良い結果だとはみんな言っていましたね。ウインターカップは県予選で聖和に負けました。

震災があった次の日、当時はエンデバーと呼ばれていたU18代表候補のような合宿に呼ばれていたんです。もちろん行けなかったし、それは残念だったんですけど、一つ上の先輩たちがいたからこそ、高校バスケの3年間ではいろんな経験ができたと思います。やりきったとは別に思わず、ただバスケを続けたいという気持ちでした。当時はまだBリーグもなかったし、bjリーグ時代の仙台を見ていたわけでもないので、プロバスケットボール選手になりたいとは考えていませんでした。もっと強い大学からの推薦もあったのですが、立教大に行って関東3部でプレーしました。

就職を考えるタイミングでプロを目指す気持ちが全くなかったわけではないのですが、プロになって35歳とかで引退して、そこから就職するのでは厳しいと考えました。また、地元に戻って被災からの復興に何か力になれないか、という思いもありました。それでもバスケは続けたかったので、仙台の銀行に入ってそこのバスケ部でプレーして、また宮城県の国体チームにも入っていました。

そうやって仕事とバスケを両立させていたのですが、転機になったのは社会人3年目、一昨年の夏です。宮城国体チームと仙台89ERSで練習試合をする機会があって、その時に「やっぱりもう一度チャレンジしたい!」と思ったんです。あとは同年代の富樫勇樹や田渡凌のBリーグでの活躍に刺激された部分もありました。銀行員を辞めてプロの世界に飛び込み、すぐに成功できるかどうかは分からなかったですけど、本気で取り組めば可能性はあると思いました。だから一度そう思った後は悩まなかったし、昨シーズンは練習生で収入がなく、貯金を切り崩しての生活でしたが、不安はなかったです。

阿部翔太

「3.11の一日だけでもいいから思い出してほしい」

今シーズンからプロ契約を結ばせてもらい、最初はやっぱり何試合か出られませんでした。ターニングポイントとなったのは10月末の茨城ロボッツ戦です。僕は4番ポジションだと線が細いですが、3番で出れば身長があって、走れて動けます。走るのは昔から大好きだしディフェンスも好きです。そこでハードワークしてディフェンスでアピールできたのがすごく良かったですね。

桶谷大ヘッドコーチからどう評価されているかは分かりませんが、僕自身は走ってハッスルするのが持ち味だと思っています。

今はリーグが中断になっていますが、僕は1月25日の試合で足首を捻挫してプレーできないので、とにかく早く治すことしか考えていないです。こんな状況だし、僕は練習に参加できていないので見ているだけですが、今のチームの雰囲気はすごく良いです。今年は上がるしかない、昇格できるという自信はチームのみんなが相当持っていますし、信じています。個人的には試合が後ろにずれてしまったので、その期間を利用して、しっかり治してリーグ再開には何とか間に合わせたいですね。

9年目の3.11を迎えますが、時間をみつけて実家に帰ると次第に復興が進んでいると感じる反面、少しずつ風化していくというか、忘れられている感があるのは否めないです。僕自身も今は仙台にいて、震災のことを毎日思い出すかと言えばそうではありません。でもせめてこの日は、一日だけでもいいので皆さんに当時のことを思い出して、知ってほしいと思います。

仙台89ERSは、震災を経験したクラブとして「助け合い、チームワークのスピリッツをバスケットボールで表現し、日本中、そして世界に発信する」ことをクラブ理念の一つに挙げています。

プロバスケットボール選手として「石巻の人たちに元気を与えたい」と言うと綺麗事みたいに感じますし、僕が直接的に復興の役に立てているかと言えばそうでもないのですが、特に石巻の人たちに向けては、僕が石巻初のプロバスケ選手ということもあって声を掛けてもらう機会も多いので、僕のプレーでちょっとでも元気になったり、子供たちが少しでもプロを目指したいと思ってくれたり、そういうきっかけを作ることができればと思っています。

そういう意味でもB1に昇格したい気持ちが強いですね。とりあえず僕は万全な状態で試合に戻れるように。チームはリーグ再開から残り試合を全勝するつもりで昇格を勝ち取りたいです。そこでチームに貢献するためにも、僕は誰よりもコートで走って跳んで守って、ハッスルする姿を皆さんに見てもらいたいです。

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