『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。
1988年7月20日生まれ、神奈川県出身。気迫溢れる激しいディフェンスを持ち味とし、その明るい性格とリーダーシップで日本代表のキャプテンを務めている。プレーだけでなく、抜群のワードセンスで観客を魅了するBリーグ屈指の人気者。
「篠山家のバスケットはお兄ちゃんから始まった」
兄弟の影響で小さい時から遊びでやっていましたが、ミニバスを始めたのは小学校3年生の時です。兄が8個上で田臥勇太世代、姉が5個上で山田謙治世代ですね。
一番最初のきっかけはお兄ちゃんなんです。僕と違って、小学校の背の順で一番後ろなくらい背が大きかったんですけど、サッカーでキーパーをやらされていました。そこでサッカーの練習とか試合を見ていたバスケ部の先生が、大きい子が暇そうだなと、もったいないからバスケットしないかって誘ったんです。そこから篠山家のバスケットが始まりました。
お母さんも高校までバスケットをしていたので、バスケは好きでした。ミニバスの監督が女性の方で意気投合して、お母さんがお手伝いを始めたんです。コーチとして、3年生以下の低学年の子の面倒を見たりとか。それでお姉ちゃんも自然に始めたと思うんです。だから、僕は本当に小さい時から行っていたので、父母会のお母さんたちにおむつを替えてもらったりとかしていましたね。
でも僕はずっとやらないって言ってたんです。厳しい先生だったので怖くって。練習も緊張感があり、厳しく指導されているのをずっと見ていたので。でも、学校で一番仲が良かった子がバスケットを始めたいと言って、一緒に練習の見学に行かないかって誘われたんです。それが3年の時です。
仲の良い友達に誘われたらコロっと「行ってみようかな」と思いました。そうしたら先生もすごく優しくて、「竜ちゃん、久しぶりじゃん。来てくれたんだね」みたいに。今思えば、僕が怖がっていることをお母さんから聞いていたんだと思います(笑)。
「何回も辞めさせてとお母さんに相談しました」
それまでにも遊びでやっていたので、上手い方ではありました。6年生の代の選手がいっぱいいたんですが、そのうちの1人の先輩を抜いて、自分はすぐ試合に出ることになりました。
最初は休みたいと言ったら休ませてくれたし、遊びたいと言えば遊び優先で良いという感じでやっていたんです。でも、その6年生が僕の代わりに出られなくなったので、試合に出るんだったら遊びじゃマズいとなり、そこから「練習にちゃんと行きなさい」となりました。
練習はキツかったですね。週4日か5日くらいはあったと思います。4年生の時は県で準優勝して、あと一歩で全国でした。5年生の時は全国大会で3位ぐらいになったんじゃないですかね。
その頃は本当に怒られないようにやっていたというか、楽しくできていなかったですね。責任感も生まれてなかったですし、試合でミスするのが嫌だったからボールもあまり回ってきてほしいと思いませんでした。
何回も辞めさせてとお母さんに相談しました。たくさん怒られるし、難しいことをやっていたから何で怒られるのかも分からない時があると伝えました。お母さんは、お姉ちゃんのミニバス卒業と同時にコーチから退いたのですが、見かねてコーチに復帰しました。女子のコーチだったんですけど、隣でやっている男子の練習を見ながら、自分が今何を間違えているのかとか、何で怒られて注意されているのかをチェックしてもらって、家に帰って解説してもらっていました。
僕はただただ辞めたかったので、一緒に体育館に来てとはお願いしてないんですけどね(笑)。一緒に行って見ておくから、もう一回やってごらんって、辞めさせてくれなかったです。