文=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=京都ハンナリーズ

Bリーグ初年度、京都ハンナリーズのシックスマンとしてシーズン60試合すべてに出場した籔内。まだまだ身体は動くし、本人も「やれる自信はある」と言うが、指導者の道に興味を持ち、ここで現役を終えることを決断した。

高校時代はマネージャーとして選手を支える側を経験し、実業団やストリートを経るなどプロとしては遅咲きだった籔内だが、常に信念を持ってバスケットボールに取り組んできた。彼が築き上げたキャリア、そして指導者としての抱負を聞いた。

「選手として上に行くため」にマネージャーに転身

──今回は籔内選手のキャリアを一緒に振り返ってみたいと思います。東住吉高校時代、選手ではなくてマネージャーだったという異色の経歴の持ち主ですが、これはどういうことですか?

正確に言うとマネージャーをやったのは最後の半年で、2年間は選手でした。だからと言って試合に出ていたわけではなく、どこにでもいる普通の学生です。1つ上の学年が、同じチームの佐藤(託矢)さんがエースですごく強かったんです。僕はその学年と個人的に仲が良くて、インターハイで優勝するために本気で取り組む姿を見てきたのですが、能代工に負けてしまって。次のウインターカップで絶対に日本一になると思っていたのに、大阪予選の決勝で負けてしまった。

それが僕にとっては受け入れがたい現実だったんです。思い入れのある学年が予期せぬタイミングで終わってしまったことで、僕の中で一つ燃え尽きたというか。その時に、外からバスケを見てみようと思ったのがきっかけです。それは選手として上に行くためで、外からバスケを勉強し直したほうが、大学で良い選手になれると思ったんです。

実際その半年間、プレーから離れて客観的にバスケットを見て、バスケットに対しての取り組み方や、選手としての技術的なことをあらためて勉強できました。大学のコーチは自主性重視で、戦術も練習も任せてくれたので、自分がやりたいこと、思い描いていることを表現できたと思います。

──大阪体育大学から実業団のイカイに入りました。これはどういうきっかけですか?

先日亡くなった小浜元孝さんと卒業を前にお会いする機会があって、そこで「一緒にやらないか」と言っていただきました。小浜さんは日本バスケットの重鎮で、言葉を交わすのも恐縮するぐらいの雲の上の存在だったんですが、そういう方のバスケットはどんなものだろうと興味がありました。

小浜さんのバスケットはすごく厳しかったです。一つのミスに対しても、チームに10人いたら10個のミスが起きると言われました。それまでに会った指導者の中では断トツに厳しかったですね。バスケットに対する取り組みも、ただ目の前の試合をこなすのではなく「相手を殺すつもりでやれ!」くらいの厳しさでした。

その後は大阪に帰って、実業団やストリートでプレーしました。その頃にはbjリーグがあって、友人もプレーしていましたが、うらやましいと思う反面、何が何でもプロになるという貪欲さもありませんでした。ただバスケットが好きでうまくなりたいだけで、ゴールが設定できていなかったんです。なので、島根のトライアウトを受けたのも友人に勧められたからで、「絶対に島根に入りたい」という強い気持ちがあったわけではないのが正直なところです。

勉強しながら学んで、それをまた表現して、という1年

──25歳でプロになったのは少々遅咲きですが、島根からスタートしたキャリアは高松を経て京都まで7シーズン続きました。強い気持ちがなければ続かなかったと思います。

単純に負けたくないという気持ちはありました。選手である以上、「試合に出たい」という気持ちを持ち続ける必要があります。ただ、試合に出れないストレスがあっても、それを他の人やモノに向けることは絶対にしたくありませんでした。僕は誰よりも、自分の力を現実として受け止めようという努力をしてきたつもりです。自分が認めないことには前に進めないと思ったので。それで足りないところは教えてもらったりして伸ばしました。

──影響を受けた選手を挙げるとしたら?

島根の山本エドワード選手です。同時期に入団して仲も良いんです。知名度も実力もある選手ですが、そうなる前からお互いのことを知っているので、負けたくない相手でもあり、心から応援したい選手でもあります。良い意味でのライバルのような存在ですね。

もう一人は名古屋の石崎巧選手で、彼の影響がその後のキャリアの基盤となりました。彼が25歳ぐらいで日本代表に入っていたり、ドイツに行っていたりした時期ですが、単純に僕より素晴らしいキャリアがあり認められてもいるのに、「これだけやるのか」という練習量をこなしていて。彼より下手な自分の練習量を情けなく思った、その衝撃を僕はすごく覚えているんです。彼からの学びがあって、身体的にもキャリア的にも伸びたと思います。

──キャリアの最後でBリーグを経験しました。新しいリーグはどうでしたか?

無我夢中で駆け抜けたシーズンでした。素晴らしい選手ばかりで、毎日が決勝戦みたい(笑)。目の前の試合に勝つことに集中して120%の力を出しても、相手がそれを上回ることも何度もありました。そういう意味では自分のバスケットボール人生を凝縮した1年でしたね。自分のできないところ、足りないところを考えさせられて、見つめ直して。

シーズンが終わって思うのですが、僕は終盤になってプレータイムが伸び、スタッツも出るようになりました。そこに行きつくまでに時間はかかりましたが、ゴールの時期にちゃんとしたパフォーマンスが出せたことは、自分にとってはすごく勉強になりました。勉強しながら学んで、それをまた表現して、という作業を繰り返した1年でした。

指導者として『心の部分』、『人間力』を伝えたい

──これから指導者として、自分の経験をどういう形で次世代の選手たちに伝えたいですか?

技術的なことを言えば、バスケットは正解が限りなくあるスポーツです。いろんな考え方の指導者がいて、指導者の数だけ練習メニューがあります。それでも、どんな技術も戦術も、すべて生かすのは心であって、その心があればどんなコーチの下でも、どんなチームであってもバスケはできます。その部分での僕の経験を伝えて、何かのきっかけを与えられたらという感じです。

結局、中学も高校も3年間しか一緒に過ごすことができなくて、最後はカテゴリーの外に出てそれぞれ自分の力で目標に向かっていくわけです。そこで成功するかどうかは本人次第で、人間力が求められます。例えば高校生でシュートがよく入ったり、ドリブルがうまくても、コーチの考え方次第では使われないかもしれない。その時に「じゃあもういいや」となってしまえば、どこの世界に行っても通用しません。それはバスケットに関係なく、仕事でも同じなので。そういう心の部分、人間力を伝えたいです。

──最後になりますが、引退することへの後悔はないですか?

後悔は一切ないです。後悔しないために今年やめます。結局は自分の気持ち一つなので、もう決めました。発表まで早かったのは、僕の都合でチームをあまり動かしたくなかったからです。チームありきの自分ですから。