見事な采配とチームマネジメントでアルバルク東京をBリーグ連覇に導いたルカ・パヴィチェヴィッチ。世界的な名将の実力を日本でも遺憾なく発揮している彼に、この2年間のチーム作りにおける手応えに始まり、そもそも指導者に転身したきっかけなど、シーズン中にはなかなか聞く機会がないエピソードを大いに語ってもらった。
「勝っても負けてもリラックスする時はする」
──リーグ連覇おめでとうございます。シーズン中は激務が続いていただけに、優勝祝いのパーティーは存分に楽しめたのではありませんか?
連覇は本当に素晴らしい結果だ。ファン、パートナーと一緒に祝う機会もあって良かった。ただ、パーティータイムは勝ったから来るものではない。勝っても負けてもリラックスする時はする。それはプロフェッショナルとして昔に決めたことなんだ。
──A東京は早々に日本人選手たちが、ほぼ残留することを発表しました。この点についての感想を聞かせてください。
就任する時、基本的に若くて有能な日本人選手を揃えた。この2年間において個々がしっかり成長し、日本人選手のコアは作ることができた。小島(元基)と安藤(誓哉)がポイントガードを務め、(田中)大貴は成熟してフランチャイズプレーヤーになった。(馬場)雄大も学生で加入し、チャンピオンシップのMVP選手となった。ザック(バランスキー)はパワーフォワードからガードもこなせるようになっている。ベテランでは(竹内)譲次が国際舞台のスタンダードを備えた選手へと進化した。私にとって日本人選手の残留は当然のことで、彼らと再び一緒に戦うことはハッピーだ。
──では、この2年間におけるA東京の成長具合についてはどのように評価されていますか?
インターナショナルレベルのバスケットボールをプレーできる、つまりフィジカル、メンタルタフネス、アグレッシブさ、スピードを備えた選手を揃えたことがベースとなっている。そして現代バスケットボールの戦術を攻守で導入した。オフェンスでは素早いトランジションができ、多くのボールハンドラーを揃えた。すべてのポジションに、ボールハンドリングに優れて的確な判断をできる選手がいることが大事だ。これによって5つのポジションすべてでピック&ロールが絡み、多くのボールムーブが起き、ドライブを仕掛けられるようになった。
この戦術を遂行するためには強靭なフィジカルが必要で、そのための練習を導入した。選手たちはいつもウェイトとランニングをやり、スキルコーチの指導を受ける。理学療法に関するミーティングも行った。総合的なプログラムに基づいて常にトレーニングを継続できている。
「現役の間は人生でいろいろな嵐に遭遇した」
──ここであなたのコーチングキャリアについて聞かせてください。欧州屈指のトッププレーヤーから指導者に転身しました。セカンドキャリアでコーチ業を選んだ理由は何ですか?
私は20年間、欧州のトップレベルでプレーし、キャリアを通して様々な状況を経験してきた。ユーゴスラビアで生まれ、国家の分裂を経験するなど、現役の間は人生でいろいろな嵐に遭遇した。人生のあまりに多くもの年月をバスケットボールに投資してきたので、バスケ以外の道に進むことは考えていなかった。
引退した時点でコーチとフロントの2つの選択肢があった。私はポイントガードで、特にベテランになってからはチームでヘッドコーチに次ぐコーチという存在だった。それでもフロントに入るのも魅力的な仕事だと思った。私は質の高い教育を受けていたし、アメリカの大学に行っていたので国際的なコネクションを持っていた。
それでも決め手になったのは、欧州のGMが開かれたものではないことだ。実績によってオープンな競争で決まるのではなく、閉じられた世界で決められる。だから、欧州においてGMの席はいつも空きが少ない。コーチングにもマネジメントにも興味はあったが、よりオープンな競争である指導者の道を選んだ。コーチは実力があれば欧州、そして日本と世界のどこでも職を得られる。逆に私が日本でGMになるのは難しい。日本語を理解し、日本の選手をよく知り、日本について熟知しないといけないからね。
──引退した後、コーチの役割にすぐに適応できましたか。それとも苦労が多かったですか?
引退した時、私はビックグラブであるレッドスター・ベオグラードのキャプテンだった。そして、最初にヘッドコーチを務めたOKKベオグラードは、レッドスターと提携関係にあった。経験を積むべくOKKでプレーするレッドスターの若い選手たちを育成するのが役割だ。これはビッグチャンスであり、引退した翌年からすぐに指揮官となった。
最初は本当に大変だった。私は現役生活の最後をベンチで過ごすように燃え尽きるまでプレーをしたわけではなく、余力を残して引退した。そういう元選手は、指導者の仕事に適応するのに手間取るものだ。引退した時の身体は今の五十嵐(圭)や田臥(勇太)のように引き締まっていたし、あと数年はプレーできるコンディションだった。
それでも自分が選手であったことは忘れ、違った視点でゲームを見なければいけないのだが、それは簡単ではない。だから、私はユース時代に私を指導したゴラン・ミルコビッチをスタッフに加えて、指南役になってもらった。私は選手生活を振り返ることはせず、1年目からコーチとして成功を収めることができたが、ストレスも多かった。
「アルバルクファンのことが大好きだ」
──様々な国でヘッドコーチを務めてきましたが、経験を重ねることでコーチングスタイルに変化はでてきたと思いますか?
コーチングのスタイルは、それぞれの内面にある人柄によって決まるもの。キャリアを重ねても、そこに大きな変化はないと思う。ただ、昔は今よりもっと試合中にエキサイトすることもあったくらいの違いはあるだろうね(笑)。コーチになって16年目か17年目になるが、試合への理解や自分の振る舞いは常に進化させなければならない。またスタイルとは別に、それぞれの国のやり方に適応することが大事だ。日本にも日本的な物事の進め方がある。そういう意味で、私にとってはアルバルクのヘッドコーチになる前、日本代表で1年活動できたことは大きかった。
各国のルールについてもアジャストしなければならない。例えば日本のオン・ザ・コート2は世界から見ると特殊だ。ドイツの時、外国籍は9名まで獲得できたから、基本的にはアメリカ人ばかりのチームだった。フランスでは外国籍選手を5人まで使えて、とてもアスレチックでアグレッシブなリーグだった。一方、ギリシャではアメリカ人は2名のみだったが、7名をヨーロッパ枠で取れた。その結果、テンポはちょっとスローでもスマートなバスケットボールとなっていた。このように各国のルールに適応するのは、インターナショナルなコーチとして活躍するためには重要だ。
──バスケットボールから離れた部分で環境に慣れるのに苦労したことはありましたか?
東京、ベルリン、パリ、アテネ、ベオグラード。みんな素晴らしい国だし、そこに暮らす人々も素晴らしい。生活面で問題となったことはない。私は17歳の時、アメリカのユタ大学で学ぶため国を出た。新しい環境に順応するための経験は豊富だ。ストレスもあるけど、世界各地に行けるのはこの仕事の素晴らしい部分だ。
──母国に帰っている間は、バスケットのことは忘れて少しのんびりするのですか?
アルバルクに関して言えば、帰国してもオフはない。常にチームのことを考えている。これはコーチ業の大変なところで、GMやアシスタントコーチ、メディカルスタッフとは常に連絡を取り続けている。それでも国に戻っている2カ月間は、家族や友人との繋がりを深める。妻と2人の息子はベオグラードに住んでいて、父はモンテネグロにいる。この2つの国でそれぞれ友人たちと旧交を温めておきたい。ギリシャやスペインのビーチに行く時間があったらラッキーだね。
──最後にファンへのメッセージをお願いします。
まず、私はアルバルクファンのことが大好きなんだ。選手、チーム、クラブに大きな愛情を見せてくれており、彼らを家族のように思っている。ファンの大きな声援はうれしいし、励みになる。
新シーズン、相手は今まで以上に私たちを倒してやろうと強い気持ちで向かって来るだろう。対抗していくにはファンの大きなサポートが不可欠だ。皆さんとよりコミュニケーションを取って深い繋がりを築きたい。そして、ホームコートを自分たちにとってより強固なものにしたい。
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