キャバリアーズ

1970年にキャブズを創設、アリーナ建設にも手腕

キャバリアーズの創設者として知られるニック・ミレティが先週、93歳で亡くなった。

クリーブランドで生まれ育ったミレティは、マイナーリーグのホッケーチームを買収したのを機にプロモーター業に進出し、スポーツで地元を盛り上げる事業に力を入れた。1968年、30代半ばにしてホッケーチームの本拠地だったクリーブランド・アリーナを手に入れると、その2年後にはキャバリアーズを立ち上げてNBAに加わった。

「ミルウォーキーやフェニックスにはあるのに、アメリカ第8の都市であるクリーブランドにNBAのチームがないのは寂しいことだ。別に創設者が優れていなくても、誰もがニーズを理解していた」と彼は当時を振り返っている。

すでにクリーブランド・アリーナは老朽化が進んでおり、NBAの試合をするには十分ではなかった。市内中心部への新たなアリーナ建設の要望に地元の政治家や実力者が難色を示すと、彼はアクロン地域にリッチフィールド・コロシアムを建設した。当時で2万人収容と最大級のアリーナであり、NBAの名手ラリー・バードから「独特の雰囲気があって、一番好きな会場だった」と評された会場だった。

創設5年目、リッチフィールドに移って間もない1975-76シーズンにチームは49勝33敗の成績を残し、初めてディビジョン優勝を果たすとともにプレーオフに進出。カンファレンスファイナルでセルティックスに敗れたものの、タフな戦いを続けて土壇場で勝負強さを示す劇的な勝利の数々は『リッチフィールドの奇跡』と呼ばれ、当時のファンを喜ばせた。

しかし、他の新規創設チームがそうだったようにキャブズも良い時期より悪い時期の方が長かった。そしてミレティも資金繰りに苦しんだ。もともと資産家でも投資家でもない彼は、キャバリアーズの創設や巨大なアリーナの建設、さらにはMLBインディアンス(現在のガーディアンズ)の買収に必要な手付金しか用意できず、巨額の借金を背負ってその利子を払うのがやっとの状況だった。

結局、彼はキャブズを10年で手放し、リッチフィールド・コロシアムの株も売却。インディアンスに至っては5年しか保有できなかった。その後は不動産業に転向し、後にはラスベガスで映画事業に乗り出すも、大きな成功を収めたとは言い難い。晩年はクリーブランドに戻り、創設46年目にしてレブロン・ジェームズが成し遂げたキャブズの初優勝を見届け、最後はオハイオ州の人間として世を去った。

キャバリアーズは創設者の死に際し、「スポーツ界に革新をもたらし、クリーブランドのスポーツファンの夢を現実に変えた人物」と彼の生き様を称えている。「クリーブランドのスポーツの歴史を変えた彼の情熱と献身は素晴らしいものでした。彼の精神が今後も我々を鼓舞してくれることでしょう」