小林慎太郎

クラブ創設から地元出身選手として熊本ヴォルターズを支えてきた小林慎太郎が、現役引退を発表した。パナソニックの廃部に伴って地元に戻り、2013-14シーズンにNBL初挑戦となった熊本に加わって8シーズンに渡り中心選手としてプレー。2016年の熊本地震でチームが存続の危機に陥る中、小林はチームを支えるだけでなく熊本の人々を助ける震災復興に奮闘し、多くの人が彼に続いた。彼を擁する熊本は何度かB1昇格のチャンスがあったが、上がることはできず、小林は現役生活に未練を残しながら引退を決断することに。多くの人を惹き付けた『オンリーワン』のキャリアを、彼自身に振り返ってもらった。

「まだ現役を続けたかった、熊本でプレーをしたい気持ちしかなかった」

──長い現役生活、お疲れ様でした。まずは引退を決意した理由について教えてください。

まだ現役を続けたかった、熊本でプレーをしたい気持ちしかなかったんですけど、チームの意見はそうではありませんでした。正直、現役を続けたかったので他のチームとも話をしたのですが、僕自身が熊本をずっと背負って、それこそ『Mr.ヴォルターズ』と言われた中で、自分の気持ちだけで他のユニフォームを着ていいのかという疑問があって、結論としては「俺は熊本のユニフォームしか着れない」となって引退を決意しました。給料はゼロでもいい、このシーズン限りで引退すると公言してあと1年やらせてほしいと言ったんですけど、それも受け入れてもらえなかったことで、このチームでバスケをすることはもうないんだなって。

それですごく考えたのが阪神タイガースの鳥谷敬選手であり、バルセロナのリオネル・メッシであって、本人が「生涯このチームで」と思っても、意外にそうは進まないんだなと。フロントと選手の考えはいつも同じじゃないんだとあらためて感じました。それはこの世界の厳しさでもあるし、もし将来チームのフロントに入ることがあれば、疑問を投げ掛けたいテーマの一つです。

──膝の前十字靭帯を断裂する大ケガがありました。コンディション的にはどうでしたか?

大きなケガでしたが、試合に出始めればシュートのパーセンテージも悪くはありませんでした。ただ、プレーできる時間は短くなってきていたと思います。良いパフォーマンスを長く出し続けるのが難しくなってきた感覚はありました。20分ぐらいならやれるという気持ちもあったので、そこで現役にこだわりたいというのはあったんですけどね。

正直、僕は生涯ヴォルターズであって、試合に出なくてもチームのために全身全霊、僕の絞り出せるものはすべて出して、一滴も残らず注ぎ続けて引退したかったんです。そこに至っていないまま引退してしまうのは僕の足りないところがまだまだあったんだと思いますね。ただ、ベテランの存在の大きさは自分が若かった頃に十二分に感じていて、それを残せなかったのは残念です。

今もどこかに出かけると、みんなから「どうするの?」と聞かれます。会う人会う人みんなに言われるので、そのことに触れられるのが嫌で人と会いたくなくなる時期もありました。スポンサーさんへ挨拶に行っても「心配してるよ」と声を掛けていただけるんですけど、「僕はやりたいんですよ、生涯ここでやりたい、給料がゼロでもプレーしたい」と言いたかったです。

──プロスポーツ選手で現役生活を悔いなく終えられるのはほんの一握りです。

そうですね。どこで辞めても悔いは残ると思います。イチロー選手ぐらいにならない限りは、ほぼ誰の引退を見てもそうですよね。ただ、自分の中で思い描いていた引退の仕方とは違いますけど、熊本で良かったとは感じます。熊本に来てから幸せな8年間でした。引退することについて気持ちの整理はつきませんが、ここを選んで幸せだった、間違っていなかったとは思います。

小林慎太郎

「6勝48敗の1年目から、僕は『熊本を日本一にしたい』と言っていた」

──小林選手のプロキャリアを振り返っていきたいのですが、プロバスケ選手はどのあたりから意識し始めましたか?

高校の時はただがむしゃらに日本一を目指していて、考え方の基盤はそこで作られたのですが、それを上手く大人にしてくれたのが東海大の陸川章さんで、一人前の男にしてくれたのがパナソニックの清水良規さんです。東海大は当時2部でしたけど、竹内譲次や石崎巧、内海慎吾がいて、実業団と練習をするんですけど、パナソニックの練習試合で「プロに行こう」と思いました。

──当時のパナソニックは日本代表クラスの選手がたくさんいる強豪でした。

金丸晃輔がその代表格ですね。ベテランで永山誠さんに大野篤史さんがいて、青野文彦さん木下博之さんに広瀬健太、濵田卓実。大西崇範さんは早くに引退してしまいましたが、代表には届かなくても渡邉裕規、根来新之助、中務敏宏は今でも活躍していますから、すごいチームでした。

パナソニックが廃部になって、次のシーズンからチームがなくなるというタイミングで僕は熊本に行きました。廃部のことを知ったのは合宿していた時の朝ですね。ホテルの会議室に集められて、そこに置いてあった新聞を読んでくれと。それでパナソニックが廃部になることを知りました。嘘みたいな、漫画の世界みたいな……あの日の衝撃は忘れないですね。

──多くの選手が和歌山に行く中で、小林選手は地元で誕生したばかりの熊本ヴォルターズを選びます。

意外なんですけど、最初は行くつもりじゃなかったんです。パナソニックがお金を出す和歌山に選手はみんな行く話だったし、熊本はできたばかりでお金もなくて、クラブチームに毛が生えたようなものだろうという思いがありました。それでも当時の社長と役員が大阪まで来て、何度断っても「帰ってこい」と誘ってくれました。地元でやりたい気持ちはもちろんありました。パナソニックは準ホームが熊本で、入団してから熊本での試合が毎年あったので、その温かさや良さは知っていました。それで結局は「お前がおらんとあかんから」という言葉がどんどん大きくなっていって、パナソニックは最後に天皇杯で日本一になったんですけど、ああいう思いを熊本のみんなにもしてほしいと思って、熊本に帰ることを決めました。

熊本での1年目は6勝48敗、お客さんが100人ぐらいしかいない時もありました。でも、その時から僕はずっと「熊本を日本一にしたい」と言っていたんですよ。お金では買えない達成感、幸せ、喜びというのは、一生を懸けて頑張る価値があるから、それを感じてほしいという思いでした。当時はみんな「こいつ馬鹿なんじゃないかな」と思っていたかもしれませんけど(笑)。

それでも6勝48敗が2年続いて、3年目にちょっと調子が上がったところで熊本地震がありました。4年目にBリーグになってから一気に良くなり始めて、B1昇格に爪がかかる、指がかかるところまで来たのに2回も逃してしまい、僕自身は大ケガをする。「なんでこんなにキツいことばかり降りかかるんだろう」と思いましたし、「バスケが面白くない」とか「一生勝てないのかもな」とも思いました。でも、負けるたびに「本気で日本一になるんだ」と気持ちを入れ直して。それは今でも思っています。

小林慎太郎

「親父が死ぬ時に、僕は『日本一になるから』と約束したんです」

──普通の人なら心が折れますよね。その不屈の闘志、頑張り続ける力はどこから生まれてくるものですか?

僕は中学の時に父を亡くしていて、そこから母親が一人でここまで僕を育ててくれました。その姿勢に頑張れる理由があるんだと思います。母親は爆裂キャラで、声がでかくて僕を10倍元気にした感じです。常にポジティブでパワフルなんですが、人に感謝する心、人に頭を下げられる心、という点では僕の100倍ぐらい先を行っています。人の幸せを望んで行動できるその姿勢には「自分もそうならなきゃいけない」と感じるものがありました。

若い頃はバスケをしていても、自分が活躍して成功することばかり考えて、勝てなかったり使われなかったりしたらフテ腐れていたんですけど、母から特に何かを言われたわけではないんですけどその姿勢を見て自分で学んで、熊本に帰って何年かで理解できるようになりました。それで、熊本地震が来てから自分自身の行動にも反映されるようにもなったと思います。

親父の影響も大きいです。自分がひもじい思いをしても後輩には良いメシを食わせろ、みたいな兄貴肌の人でした。一番よく言われたのは、自分が良いものを買うことは誰にでもできる、でも人にどれだけお金を使えるか、それを幸せだと思えと。そう言われて「ホントかな、嘘だろう」と思っていたんですけど、苦しい時に人のために動く感覚はやっぱり僕にも受け継がれています。

親父が死ぬ時に、僕は中学生だったんですけど、何を血迷ったのか「日本一になるから」と約束したんです。「だから死なないでくれ」と言ったんですよね。そうは言ってもすぐ日本一になれるわけじゃないし、親父が亡くなった後は達成してもしなくても一緒なのかもしれないけど、親父がそれを一番楽しみにしていたんだろうと思えば僕は一生頑張り続けられるわけです。どんなに苦しくてもキツいことがあっても、日本一になるまで努力し続けなきゃいけない。それでケガで1年プレーできなくてもやり抜けたんだと思います。結果として、大学とプロで3回、日本一になることができました。

──お父さんは熊本で日本一になってほしいと思っているでしょうね。現役を引退しても、また別の形でそこは目指しますか?

そうですね。このチームの礎となって、みんなの踏み台になって全然構わないので、熊本が日本一になれるのであれば僕はどんな立場でも携わっていたいです。

──まだ何も決まっていないかもしれませんが、セカンドキャリアはどういう方向で考えていますか?

もちろんバスケにかかわりたいですが、スポーツ全体を通して熊本にもっと還元したいと思います。今回のオリンピックは素晴らしいものだったと思っていて、コロナで開催できるかどうか危ぶまれていた中で、あれだけ感動があってみんな勇気をもらっていました。スポーツの力って絶対にあると思うんですよ。オリンピックは日本全体でしたけど、熊本は熊本でそういう力を出せると思うので、伝えられる人が伝えなきゃいけないと思っています。

小林慎太郎

「結局、僕は人が好きで、ファンの皆さんを愛してやまないんですよ」

──小林選手は熊本の『地元のスター』でしたが、それと同時に全国への影響力、発信力もありました。

どこにお礼を言えばいいのか分からないぐらい、多くの皆さんにお世話になって学ばせてもらって叱咤激励されてきたキャリアでした。本当はすべての人に一人ひとり手を握って「ありがとう」と伝えたいんですよ。でも時間だったり距離だったりで会えない人もたくさんいるので、この場を借りて心からの感謝を述べたいと思います。LINEやSNSでのメッセージもすごくたくさんもらっていて、それを読んでいると、何物にも代えられない宝物を僕は持っていたんだなと涙が出ます。

──ファンと交流することが多い小林選手ですが、一番思い出に残っているのは?

いつも支えてもらってきて、それは上手くいっている時、勝っている時だけじゃありませんでした。だから思い出すのは苦しい時、勝てなかった時、上がれなかった時のことですね。一番忘れられないのは横浜で昇格を逃して熊本に帰って来た時に、空港のロビーに熊本のファンの人たちが何百人と待っていてくれて、「レッツゴーヴォルターズ」のコールをしてくれたんです。普通だったら考えられないですよ。「負けたんですよ僕たち?」みたいな。でも、ファンのみんなが「ヴォルターズは俺たちのプライドだから、誇りだから」と言ってくれて。熊本の熱さを感じて、一生この人たちのために頑張らなきゃと思いました。

これは一つの例ですけど、振り返るとやはり大きなインパクトがありましたね。『ワイドナショー』とかで取り上げてもらって、それを見た全国の人たちにも支えてもらいました。結局、僕は人が好きで、ファンの皆さんを愛してやまないんですよ。僕自身も人に懐くし、懐かれたいし、こうして現役を辞める時に一番思うのは、一番大事なのは心だということです。僕のバスケット人生がここまで来れたのは、心があったから。ありきたりですけど、みんなと心を通わせ合うのが僕は好きなんです。

だからこうやって取材してくれる登志夫さんとも、監督ともチームメートともファンとも心を通わせ合ってきました。「ファンサービスが良いよね」と言われますが、僕はサービスしようというより、心と心の距離を近づけたいんです。会場に来てくれるファンの方に対して、一人ひとりできるだけ覚えて言葉を交わして、心と心を近づけたいと思ってやってきました。いつしかそれがプレーの良し悪しより僕にとって重要なものになっていった、それが僕のバスケット人生だったと思います。