日本初のJBA公認プロレフェリー加藤誉樹が語る『審判のお仕事』(前編)「プレーヤーとしての後悔や劣等感を力に変えて」

2017/10/14
NBA&海外
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文=鈴木健一郎 写真=野口岳彦、鈴木栄一

「大濠で慶應なら審判できるんじゃないか?」と言われて

──愛知県安城市のご出身で、もともとは選手だったんですよね。まずはバスケを始めた頃のことを聞かせてください。

父は住友金属で、母はシャンソン化粧品でプレーしていた日本代表選手なんです。だから生まれた時からバスケットがあって、小さな頃から将来の夢はバスケット選手でした。小学4年からミニバスを初めて、その頃には父が教員として指導をしていたので、週末になると私も父の高校に遊びに行って、高校生のお兄ちゃんお姉ちゃんと一緒にプレーしていました。

──そこから福岡大学附属大濠高校へと進みます。親元を離れてでも、レベルの高いところでやりたかったということですよね。

そうですね。あとは田中國明先生のところに修行のつもりで行ってこい、という父の思いがありました。中学時代はあと一歩のところで県大会に出れなかったのですが、田中先生が「特待生で取る」と言ってくださいました。それでも父からは「勉強が全くできなかったら特待生でも入学できないぞ」と脅され、しっかり受験勉強もして入試を受けて。晴れて大濠に入学できました。

──大濠に行くとレベルが一気に上がると思います。そのあたりで壁は感じましたか?

高校から大学2年まで、選手時代は劣等感しかありませんでした。大濠のチームメートは全中で活躍したり、そうでなくても名だたる中学校から来た名だたる選手ばかりで、私は付いていくのもやっと。その上に病気やケガもあって、選手として陽の目を見るところまで行きつけなかったんです。後から思えば「あの時にこうしておけば」ということばかりです。もちろん、その時その時では一生懸命に、自分の思うベストを尽くしていたつもりですが。

大学2年の時に、チームの中から学連(全日本大学バスケットボール連盟)の役員を出そうという話になって、ちょうど私もケガで鳴かず飛ばずで、長くバスケットに携わりたいと思った時に、一念発起してプレーヤーを辞めて学連に行くことにしました。そこで学連の先輩に「大濠で慶應なら審判できるんじゃないか?」と言われたのがレフェリーになったきっかけです。

──現役引退の決断は重かったと思いますが、決め手はケガですか?

最終的にはケガと、自分自身の不甲斐なさですね。大学時代には琉球ゴールデンキングスの二ノ宮(康平)選手、3×3でやっている岩下(達郎)選手、九州電力の酒井(祐典)選手と、私より選手として優れた仲間がたくさんいましたから。他のメンバーが学連に行くよりも自分が行くべきだろうと。

──初めて審判を担当した試合を覚えていますか?

スポーツ用品店で審判着を買って、夏の高校生の練習ゲームを大学生ながら吹きに行ったのが最初です。最初の半年ぐらいは選手としてダメだったことを引きずりましたが、「それではつまらない」と気持ちを切り替え、本気で取り組むようになりました。選手としての後悔や劣等感があり、審判としては同じ思いをしたくないというのが今日まで続いています。

銀行を志した理由の一つは「確実に土日休み」だから

──その後は大学院に進み、大手銀行に就職しました。銀行ではどのようなお仕事を?

法人のお客様へのご融資など経営のお手伝いの仕事をしていました。様々なニーズのお客様に対して銀行としてどうお手伝いできるのか。すごく勉強になりました。

──そんな銀行の仕事をしながら、週末になれば審判をやっていたわけですね。銀行マンとバスケの審判を両立させる上で、一番大変だったのは何ですか?

銀行を志した理由の一つに、確実に土日休みだというのがありました。しかし審判はオン・ザ・コートで吹くだけではなく、いろんな準備が大事なんです。トップリーグでチーム同士がスカウティングするのと同じように、次に担当するチームの前の試合を見たり、一緒に担当するクルーお二方のゲームを見て、良かった点、もっと良くなる点を抽出したり。もちろん自分が担当したゲームも振り返ります。銀行にいる最後のほうは「24時間じゃ足りない!」と思っていました。睡眠時間を削るしかなく、それが一番大変でした。

本業も片手間でできる仕事ではありませんが、私の内面としてはバスケットを大事にしたいし、それをないがしろにしたくないのは選手時代の劣等感から始まっているので、両立に葛藤しながら、というところでした。その中で自分がベストを尽くしたところで、求められるクオリティに達していなければ意味はないので、それを担保するにはどうしても時間が足りなかったですね。

──その場の気合いで何とかなるものじゃなく、事前の準備なしには成り立たないものなんですね。

その通りです。逆に言うとコートの中では変に気張らずに、準備してきたものを淡々と出していくほうが表現としては近いです。

銀行マンから『プロレフェリー』へ

──プロレフェリーになる前の段階で、銀行を退職されています。辞める葛藤もあったのでは?

立派な会社に就職させていただき、銀行員として会社に手塩をかけて育ててもらいましたので、飛び出すにあたっては葛藤がありました。最終的に背中を押してくれたことが2つあります。一つは「人生は一度しかない」こと。銀行で定年まで勤めたとして、「あの時バスケットを選んでいたら……」と絶対に思うだろうと。もう一つはやはり選手時代に一花咲かせたかったという思いがあり、審判としてではありますが、自分がどこまでバスケットでやれるかという思いがありました。

銀行時代は寮生活でしたが、金曜の夜に仕事が終わるとキャリーバックを持ってどこかへ出かけて行き、日曜の夜中に帰って来る生活でした。そんな私の姿を見ていた人たちが今回の決断を応援してくれることは本当にありがたく思います。

日本初のJBA公認プロレフェリー加藤誉樹が語る『審判のお仕事』
(中編)「審判ではなく選手が注目されるのが一番です」