取材=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=古後登志夫、B.LEAGUE

熊本ヴォルターズの小林慎太郎は、ご存知の通り地元出身のキャプテンである。ただ、出身は熊本市だが高校は宮崎県の小林高校へと進学していた。その関係で先週末、高校の先輩である清水太志郎(サンロッカーズ渋谷)に誘われ、宮崎県の中学生を集めたクリニックに参加した。

被災地のクラブとしての熊本の奮闘ぶりがテレビ番組で放送されたこともあり、小林の知名度は抜群。「今日も声をかけられまくりでした」と笑みをこぼす。文字通り身体を張ってチームを牽引したキャプテンに、この1年間を振り返ってもらった。

「僕たちは何かを伝えるためにコートに立ちました」

──Bリーグ初年度のシーズン、振り返ってみていかがでしたか?

復興とB1昇格という2つの目標を掲げたシーズンでしたが、復興が重要点でした。お客さんは試合ごとに増えていって、最後は4899人の満員で、入場規制がかかるぐらいの満員にもなりました。その点については一定の水準に達したと思います。何かしらを求めて会場に足を運んでくれたみんなに、僕たちは何かを伝えるためにコートに立ちました。それを1シーズンやり続けられたことは良かったと思います。

言うまでもなく地震は最悪の出来事でした。飲み水も食べ物もない、暮らす家もなくなってしまった状況でも、自分自身には光が見えていました。なぜ復興支援を急いだのか、先を見据えていろんな活動ができたのか、それは超満員になる体育館のイメージが僕の中で見えていたからです。僕としては、「そこに行き着くために今行動しないと」という感覚でした。

もちろん、選手としてはフラストレーションもありました。練習に行くのに1時間半、帰るのに2時間かかるんです。県外に練習に行く感覚ですよね。でも、それを言い訳にしたら、いくらでも言い訳できてしまう。それをやらせないのがチーム内での自分の役目だと思っていました。

──キャプテンとしての役割も、他のチームとは違って複雑なものだったと思います。

キャプテンを4シーズンやらせてもらって、年々チームへの関わり方が分かってきました。チームに対するフラストレーションもありましたが、それは自分がワガママにやりたいということとは全然違います。チームは経営危機で、給料が遅れることもありました。その時に僕は「切ってもらってもいいよ」と言いました。僕を切ってもいいから、その代わり復興支援だけはやり続けたい。それはプロ選手として、自分の地元の愛する熊本を助けたい気持ちがあったから。それだけで動いていました。

チーム内にも温度差はやはりありました。実際に自分の家族が明日の食事もない選手と、そういう状況を知らない移籍してきた選手が一緒にいるわけなので。でも、それが問題になる間もなくファンの方たちが会場に足を運んでくれる。それはやっぱり何かを求めているからだと他の選手も感じてくれて、「やらなきゃいけない」という使命感を持ってくれました。

──ピンチをチャンスに変えたというわけですか。

まあ、よくそう言いますけどね……。僕が勝手に思っているだけですが、「スポーツで元気を」って綺麗事の面も大きいです。メディアは良いニュースを扱うし、カメラは良いところしか抜かない。だから僕は綺麗事ではない部分も訴えたかった。

例えば、地震が起きた時に僕らは神奈川にいて、試合をやるよう求められました。「スポーツで元気を与えてくれ」って。でもそれは綺麗事ですよ。実際は試合をしないと興行的にマズいし、対戦相手には違約金を払わなきゃならない。チケットの問題もあるということです。

「今、君たちが頑張ることで熊本に元気を与えられる」と言われましたが、僕は「それは綺麗事だ」と言いました。契約している以上はプレーしなきゃいけない。やろうと思えばできたのかもしれませんが、僕は「できない」と言いました。もちろん、そこには葛藤がありました。

しかし、熊本の人たちはパソコンが見れなくて試合結果も分からない。それでもプレーすることが元気を与えることになるのか、と。その人の家族が水も食べ物もないという状況にあるのに、「バスケットを頑張ってくれ」とは言えないはずです。僕は一刻も早く、水1本でも持って熊本に帰ることが、自分のやるべきことだと思いました。それはバスケットボール選手である前に人間だったということだと思っています。

「最後の最後は練習量が足りなかった、それに尽きる」

──震災復興がモチベーションになったから戦うことができた、と言うことはできますか?

結束すれば乗り越えられないことはない、そういうチームの強さは若干出せたと思います。でも、ウチは1部から2部に行ってスタートしたチームです。「ヴォルターズは調子良いね」と言われていますが、僕はずっとパナソニックという名門にいて、勝つことが当たり前の環境にいました。だから2部になってそれぐらいの成績を残すことは当然だと思っていました。

──それでもプレーオフで勝つことはできず、B1昇格を逃しました。

最後の最後は練習量が足りなかった、ただそれに尽きると思います。でも、もう嘆いても仕方ない。練習する体育館がないと言っても状況は変わらないので。ただの力不足ですが、もっと練習すべきでした。練習場のこともあるし、メンタルの部分でも詰めが甘かったのは否定できません。そこは自分でも反省しています。

個人としては結構良かったと思っています。シュートのパーセンテージには納得していませんが、決めている数と得点では今まででも一番良かったシーズンなので、あの数字(1試合平均7.1得点)を最低ラインにしたいです。

──シーズンが終わった直後に来シーズンの契約を熊本と結びました。やはり目標はB1昇格ですか。

正直なところ、ここまで来て他のチームに移籍する気はないです。骨を埋めようと思っています。それは去年の震災の時点で、バスケをやめるならここでと決めたので。だから最後はB1というよりも日本一になりたい。「B2のチームが何を言ってるんだ」と思う人もたくさんいるでしょうが、僕が見据えているのは熊本が日本一になって、市内をパレードすることなんです。

──それはやっぱり地元愛から来ているんですよね?

もうそれしかないです。熊本のために、それだけです。よっぽどのことがない限り、熊本が潰れたりしない限りはバスケットをここで続けます。今まで僕はインカレや天皇杯で、先輩や仲間たちに日本一を経験させてもらいました。日本一になる価値や意味の大きさ、お金では買えないものを経験してきたつもりです。自分が日本一になりたいというより、若い選手や熊本の人たちに、それを味わってもらいたい。ジェットコースターのスリルなんかじゃない、お金じゃ買えないスリルです。そういうものを得る喜びや感動を味わってほしいです。

「熟成して味のあるプレーをバスケでも見せたい」

──熊本の観客動員はB2でぶっちぎりのナンバーワンです。その点には満足していますか?

それも正直に言ってしまうと満足していません。なぜかと言ったら千葉は平均4500人ですから。人口比率で言えばまあまあ良いところかもしれませんが、でも上を見せられたら2109人じゃダメだと思っています。それだけ入って当たり前、もっと入れていこうよ、と僕は思っているんです。僕たち選手は勝つことを頑張るので、会社は頑張ってお客さんを入れてほしいです。

熊本にはヴォルターズとロアッソの2つしかプロスポーツがありません。まだまだ集められるはずです。だからウチはもっと掘り下げてファン獲得をしていかないと。それがないと、これから先に見据える日本一はないと思っています。

──もうしばらくすると本格的なシーズンの準備が始まると思います。新シーズンの開幕を楽しみにしているファンへのメッセージをお願いします。

来シーズンもまた僕は熊本でバスケットを続けていきます。復興は目に見えない、数値で表すことのできないところが多くて、どこまでが復興して、どこまでがそうでないのかは本当に分かりません。特に心の傷は今でもそうです。ちょっとした揺れが来るたびに震えて起き上がる人もたくさんいます。そういう人たちの心の支え、拠り所に少しでもなれたら。ちょっと心に傷を負っている人がヴォルターズを楽しみにできる、日常のものにしていきたいと思います。

僕自身、熊本の看板選手になりたいと思っています。僕はまだ引退を全く考えていなくて、40歳までやるつもりでいます。野球のイチロー選手のように、熟成して味のあるプレーをバスケでも見せたいんです。長ーく熊本でバスケットを、僕はしつこくやめずに続けていきたいと思いますので、応援よろしくお願いします。