丸田健司&新田寛之

1月に行われたJr.ウインターカップで男子のファイナルまで勝ち進んだKAGO CLUB(大阪)の選手たちは、『AKTR』のユニフォームに身を包んでいた。バスケットボールをテーマにしたアパレルブランドの『AKTR』は、KAGOとのコラボレーションのプロジェクトとして『KAGO-AKTR』を展開。地域のバスケスクール、いわゆる『街クラブ』であるKAGOのために商品を作り、一般にも販売している。そこにはどんな思いがあるのか。KAGOの丸田健司(MARU)コーチと『AKTR』の代表を務める新田寛之に話を聞いた。

「一番輝いている瞬間だからこそカッコ良くあってほしくて、AKTRを始めました」

──まずはAKTRの成り立ちと、KAGOとの接点がどうやって生まれたのかを教えてください。

新田 私はデザイン事務所をやっていて、そこからブランドを立ち上げました。ストリートでバスケをやっているプレーヤーはただバスケが好きだからプレーしていて、好きなことをやっている時の服装って自由であるべきだ、みたいな考えが根底にあります。でも、バスケが好きなのに中学、高校、大学と続けていく間に嫌いになって、プレー自体を辞めてしまう子と会う機会が多くて、「なぜ好きなことが嫌いになってしまうんだろう?」という問題意識を持っていました。大好きなことをやっている時って、その人が一番輝きます。その瞬間だからこそカッコ良くあってほしくて、AKTRを始めました。AKTRを立ち上げて、大阪でMARUと初めて会話したのが2011年末のことです。

──その時、KAGOはもう活動していましたか? AKTRの第一印象はどんなものでしたか?

MARU KAGOは大阪と福岡、去年立ち上げた東京と3か所で活動しているのですが、大阪は2009年スタートなので、2011年にはもう活動していました。AKTRのメンバー3人が来てくれた時のことはすごく覚えています。当時は大阪籠球会に所属していて、そのイベント会場に新田さんがAKTRを持ってきてくれました。日本発のバスケブランドが出てきたことは東京の友人を通じてもともと知っていました。デザイン的にも僕が留学していたロサンゼルスの写真を使っていたので親近感がありました。

新田 大阪にAKTRのサンプルを持って営業に行った際に、「ちょうどイベントがあるので選手たちに見せてあげてください」と言われて出会ったのが大阪籠球会のメンバーです。そこにMARUもいました。そこで「これいいじゃん!」という反応を目の当たりにできたことは、ブランドを立ち上げたばかりの私が自信を持てたきっかけなんです。東京の子たちの反応も良かったんですけど、知り合いがブランドを始めたから着てくれたのかもしれない、という思いもあったので。それが大阪ですぐ受け入れられたことは、私にとっても大きいモチベーションになりました。

MARU 籠球会のメンバーがAKTRに触れてすごく盛り上がっていたのを覚えています。やっぱり「東京でこういうものがあったよ」みたいなことに僕たちは敏感だったので。

新田 大阪のバスケのストリートシーンが盛り上がっていることを私は知らなかったので、大阪籠球会もWebで見る知識ぐらいしかありませんでした。それでもフリースタイルバスケットボールのパフォーマンスはすごいし、自主イベントで毎回1000人以上を集めているとか、東日本大震災の年だったので復興支援の活動を大阪からやっていたり、イベントを通じてバスケを知らない街の人にもよく知られていることに衝撃を受けました。

丸田健司&新田寛之

「ビジネスというよりは『一緒にバスケを盛り上げよう』の思いで」

──その当時、AKTRのようなバスケブランドは他になかったのですか?

新田 全くないわけではなかったですが、ほぼありませんでした。大きなメーカーだと当時バスケが日本で大きな市場ではないので、カッコ良いものが国内で流通しているかと言えば、そうではなかった気がしますね。

MARU 僕があの頃に着ていたのは輸入モノのジョーダンのタンクトップだったりで、国内で売っている大手スポーツブランドの商品は本場のものからはちょっと外れていた感がありましたね。

新田 AKTRはファッションとか音楽とか、いろんな手段でバスケに興味を持ってもらおうと考えていたので、大阪籠球会が同じような視点でバスケを広めて、大阪で大きな盛り上がりを作っていたのは、まさに共感のポイントだったんです。

MARU 最初に僕がKAGOのロゴを依頼して、籠球会のユニフォームを依頼して。そこからいろんなイベントに一緒に行くようになって、お互いビジネスというよりは「一緒にバスケを盛り上げよう」の思いで活動するようになりました。籠球会がアーティストのミュージックビデオに出演する時にAKTRを着たり、SOMECITYに出場する時のユニフォームだったり、『京都大作戦』の衣装を一緒に作ったり、絡めるものはどんどん一緒にやるようになりました。

──フリースタイルバスケの大阪籠球会からKAGOのスクールへと活動の場が変わっていったのは、どんな経緯だったんですか?

MARU 籠球会ではフリースタイルを広げたい思いで子供向けのクリニックをやっていて、そこで自分がアメリカで学んだものをベースにした練習をしていました。それはフリースタイルに繋がっていくものなんですけど、例えばボールを2つ使うハンドリングを教えたりとか、日本ではそういう練習が一般的ではなかったので、すごく歓迎されたんです。それが僕には大きなやり甲斐に感じました。僕はフリースタイルより競技バスケがメインで、SOMECITYでプレーしていたし、プロ選手になりたい気持ちも持っていたんですけど、根本にある思いは「バスケを盛り上げたい」であって、指導をやっていくうちにプロ選手の夢よりも指導のやり甲斐が勝ったんです。今後、自分がバスケでご飯を食べていく意味でもビジネスチャンスがあると思うようになって、KAGOに専念するようになりました。なので、プレーヤーを辞めることが残念だとか悔しいという気持ちはなく、切り替えることができました。どんな形でも自分はバスケでご飯を食べていくという夢があったので、やり甲斐も含めて自然とKAGOに専念するようになりました。