取材=古後登志夫 構成=鈴木健一郎 写真=古後登志夫、B.LEAGUE

高橋憲一は今夏、36歳での現役引退を決断した。仙台89ERSと契約してプロ選手になった2006年から、岩手ビッグブルズ、青森ワッツ、そして秋田ノーザンハピネッツと、東北のクラブを舞台に11シーズン続いたキャリアはここで終了となった。

生まれ故郷の秋田で引退することを本人は「光栄」と言う。10月29日の秋田vs仙台の試合前に組まれた引退試合を前に、ここ一番の勝負どころで決めるシューターとして、プロフェッショナル精神を体現するチームリーダーとして、高橋が歩んできたキャリアを振り返ってもらおう。

「地元で最後を迎えられる選手はなかなかいない」

──現役引退お疲れ様でした。まずは引退を決めるまでの経緯を教えてください。

秋田で契約更新できないことが決まり、移籍も考えました。年齢を重ねるごとに契約更改の時期は選手を続けるかどうかを意識するものです。秋田に来る時点で長谷川(誠)さんに「引退するなら秋田でじゃないか」と誘ってもらったこともあり、『地元で引退』というのは頭にありました。地元で2年プレーさせてもらい、他のチームで引退するよりも今だろうと。

ケガがあったわけではないので、体力的にはまだ続けられたと思います。でも、地元で最後を迎えられる選手もなかなかいませんからね。ここは自分が生まれ育ち、高校までを過ごした場所です。人としてもバスケットボール選手としても、僕はここで育ちました。

──青森ワッツから秋田に来た2年前の時点で、引退は頭にあったわけですね。

そうですね。青森で再契約しないとなった時、それまでと違って引退を本気で意識しました。それでも長谷川さんに誘ってもらって、もう一度気持ちが奮い立ったんです。bjリーグの最後の年とBリーグの最初の年、この2つを地元で迎えられたのはキャリアの中でも格別の出来事です。リーグの節目の年に選手でいられるだけでも特別なのに、それが地元のチームでというのは、そう簡単に経験できることではありません。

──キャリアを振り返ると、良いことと悪いこととどちらが印象に残っていますか?

もちろん、やり残したこともありますよ。僕は優勝を経験していないし、リーグのベスト5にも選ばれていません。そこは残念でした。あとはケガをしたり、試合に出られなくて辛い思いもしています。でも、それ以上にたくさんの人との出会いがあり、選手として勝ち負けだけが大事ではないことを学び、人としてどう振る舞うべきか、言動や身だしなみも勉強させてもらいました。今後、セカンドキャリアを生きていく上での土台を作ってもらったと感じています。そういう意味ではネガティブなことよりもポジティブなことのほうが圧倒的に多かったですね。

「出れない時期を経験して学べたこともあります」

──プロ選手になる以前も含め、現役生活の中で一番大きな変化は何でしたか?

やっぱり学生とプロでは違いますね。高校や大学の時は、自分がどれだけ点を取ってチームを勝たせるかにフォーカスしていたんですが、その後のキャリアでチームとして戦うことの大切さだとか、チームメートやコーチングスタッフ、フロントや会社へのリスペクトを学びました。正直、若い頃は「コートに出ている5人以外は試合に関係ない」ぐらいに思っていました。でも、自分が控えに回ったり試合に出れない時期を経験して学べたこともあります。

大きなきっかけは、プロになった一番最初にコーチをしてもらった浜口炎さんとの出会いです。バスケットのことも基礎から教えてもらいましたが、それ以外のこともたくさん教えてもらいました。自分の考え方が変わるきっかけになったし、それがあったからそれ以降のキャリアがあるんです。炎さんと出会わず、そういう考え方に触れなかったら、もっと早い段階でキャリアを終えていたと思います。

──チームメートやライバルで良い刺激を与えてくれた選手を一人だけ挙げるなら?

仙台で一緒だった日下光ですね。仙台に入った時のキャプテンでした。彼はもともと周囲との協調性を大事にしたり、人間として曲がったことのできない、当たり前のことを当たり前にやれる人間です。年下ですけど良いお手本でした。

原動力となったのは「絶対に負けない」という気持ち

──やり残したこととして「優勝していない」という話がありました。チャンスがなかったわけではないですよね。

優勝できると感じたシーズンが3回ありました。震災の前年、クリス・ホルムとジーノ・ポマーレがいたシーズンと、あとは岩手にいた2シーズンですね。でも、その3シーズンともプレーオフで敗退しているんです。仙台の時は有明アリーナに行けずに負けてしまったことが本当にショックで、しばらく放心状態でしたね。ぼーっとしててクルマをぶつけました(笑)。

ただ、切り替えて次に進んでいかないといけない。大事なのは負けからどう学ぶかなんです。そうやっていつも次のシーズンに向けて気持ちを高め、キャリアを続けてきました。

僕は負けず嫌いなんです。走るのもドリルも、超負けず嫌い。高校では能代工業が大きな壁で、もちろん勝てなかったのですが、「絶対負けない」という気持ちは持っていました。それは大学でもプロでも同じ。全国で一番になれればいいんだけど、それがダメなら東北で一番、それもダメなら県で一番。それもダメだったらチームで一番とか。そうやって目標設定していました。

それでも能代には勝てなかったですね。自分がいかに点を取って能代を倒すかを考えていたのですが、とにかく強かった。公式戦で当たったのは3回ぐらいですかね。いずれも50-100ぐらいで負けています(笑)。

──今でこそ笑って話せますが、当時は悔しさをバネにして頑張っていたんですよね。

そういう気持ちは常にありました。大学でも、東北では勝てても全国に行けば関東の大学は強いです。どこに行っても必ず壁はありました。それに、昨シーズンの自分をどう超えるかをいつも目標にしていたんです。スタッツで上回るとか、パフォーマンスで明らかに伸びているとか。そういう意識がありました。

[引退インタビュー]高橋憲一(秋田ノーザンハピネッツ)
東北で全うしたプロキャリア、感謝と学びの11年を語る(後編)