角野亮伍

先日、大阪エヴェッサと契約を交わした角野亮伍は24歳になったばかり。藤枝明誠のエースとして活躍し、2年生の時にはインターハイ準優勝を経験。世代最強スコアラーと称された彼は、高校卒業後にNBAを夢見てアメリカへと渡った。1歳年上の渡邉雄太に続いてセント・トーマス・モア・スクール(プレップスクール)に通い、ディビジョン2のサザンニューハンプシャー大に進学して、5年間アメリカでプレーした。そして今オフ、角野は次なる舞台にBリーグを選んだ。今回は日本に来るまでの歩みを振り返ってもらった。

「先発の4人が自分と同じレベルかそれ以上」

──まずは高校卒業後に渡米した経緯を教えてください。

もともとバスケを始めた時からNBAでプレーすることが目標で、どこかのタイミングでアメリカに挑戦したいと思っていました。アメリカに行くコネクションがなかったんですけど、(渡邉)雄太さんの紹介でプレップスクールから声をかけてもらえました。日本の大学を選択する道もあり、実際いくつかの大学に行くことも考えたのですが、アメリカに行くなら早いほうがいいと思って、高校を卒業したタイミングで行きました。

──当時は世代No.1スコアラーとしてガンガン得点を取るスタイルでした。アメリカでもそのスタイルは変わらなかったですか?

変えるつもりはなかったんですけど、少しづつ変わっていきました。小学校から高校まではずっと僕がエースで、自分を中心としてチームが作られていました。ある意味、役割分担がなくて全部自分がやっていたんです。でも、アメリカでは自分よりも速くて動ける選手がたくさんいて、僕以外の先発の4人が自分と同じレベルかそれ以上という状況でした。

以前は「俺を使わないと勝てないだろう」くらいに思っていましたが、僕がいなくても他の選手でどうにでもなるってことが分かりました。その中でコーチから求められるプレーに徹するようになりました。

──少なからずアメリカのレベルの高さは予想していたと思いますが、想像以上だったということですか?

もちろん予想はしてたんですけど、当時は自信満々だったので。しかも僕らの代はかなりレベルが高くて、プレップスクールの12人全員が大学に進学して、そのうち9人はディビジョン1に行きました。あと2人はもうNBAにいるんですよ(オマリ・スペルマン、チャーリー・ブラウン)。

それでもプレップスクールの一番最初の試合では僕がチーム最多得点でした。身体能力の差は感じましたけど、シュート力とかセンスでは負けてないって思いました。

角野亮伍

ケガ人が続出し、センターをやる羽目に

──いきなり結果を出したはずですが、それでもスタイルが変わっていってしまったのは何故でしょう?

心がへし折られたわけではないですけど、自分が引いちゃった部分はありました。アメリカは練習から「相手をケガさせてでも自分が勝つんだ」みたいに味方同士でやり合います。僕はそれを上手くいなしながら一人黙々とやっていたんです。ですが、どの瞬間でというのは分かりませんが、どこかで死に物狂いでやる精神みたいな部分で一歩引いた自分がいました。

コーチが求めることばかりをやって、積極性がなくなって面白くないバスケ選手になるのが嫌でした。日本のプロチームから声をかけてもらっていたので、日本に戻れば言葉の壁もないですし、顔の知れた仲間もいて変なプレッシャーもなくなると思って、プレップスクール卒業後に日本に帰ることも考えました。

富樫(勇樹)選手はアメリカの高校に行って日本に戻って、またNBAに挑戦した人なので相談させてもらいました。そこで「ディビジョン2でもアメリカに残ったほうが成長できる」とアドバイスをもらって、日本に帰らずに4年間やりました。

──富樫選手の助言で大学進学を決心したのですね。大学ではどうでしたか?

自分としてはもっとドライブとかしたかったんですけど、ポジション的にシューターみたいな感じでした。1、2年生の頃はよく使ってもらって、何をしても決めれば問題なしというスタイルで僕らしさが出たと思います。でも、3年から監督が代わってシステマチックになり、当時はシューターのまま使われたんですけど、4年ではケガ人が多かったためセンターをやってくれと頼まれて……。

──センターのイメージは全くないのですが、そもそもセンターをやったことはあったのですか?

ミニバス以来ですね。今年は最後だし自分の思うようにやれると思っていた矢先にセンターの3人が立て続けにケガをしたんです。シューターをやっていたので、最初はスクリーンしてポップしてシュートを打ってもいいと言われていたのですが、いざ練習に入ると、ガードが上がってくるフォーメーションばかりを使っていたのでポップすらさせてもらえず。結局ダイブしろと言われて、空いた時にシュートを打つしかない感じでした。

──ケガ人がいたからポジションを変更したのに、それは相当キツイですね。

正直、前半の学期で日本に戻ってこようとも思ったんですけど、辞めたら今までのアメリカでの生活の意味がなくなると思って、どうにか活躍できる方法を模索しました。

──紆余曲折ありましたが、結果的にプレップスクールも含めて5年間をアメリカで過ごしました。成長したと思えるのはどんなところでしょうか?

まずディフェンスはかなり良くなったと思います。基本的にBリーグはどのチームも役割分担をしていると思うので、役割分担の中で個性を出す力はついたと思います。アメリカはスーパーエースがいたとしてもそこに頼るバスケをしないので、決められたルールの中で自分の力を出せる力はつきました。あとはシュート力やセンスでは負けない自信もあります。