文=松原貴実 写真=野口岳彦、本永創太

『バスケット・グラフィティ』は、今バスケットボールを頑張っている若い選手たちに向けて、トップレベルの選手たちが部活生時代の思い出を語るインタビュー連載。華やかな舞台で活躍するプロ選手にも、かつては知られざる努力を積み重ねる部活生時代があった。当時の努力やバスケに打ち込んだ気持ち、上達のコツを知ることは、きっと今のバスケットボール・プレーヤーにもプラスになるはずだ。

PROFILE 岡田優介(おかだ・ゆうすけ)
1984年9月17日生まれ、東京都出身のシューティングガード。プロ選手でありながら公認会計士試験に合格し、会計士としての活動も行いつつ、3×3の「DIME.EXE」に選手兼オーナーとして参画したり、日本バスケットボール選手会を立ち上げるなどマルチな活動を行う。本業の選手としてはBリーグ1年目を京都で迎え、クラッチシューターの実力を発揮、すぐにチームの中心となった。

今も忘れられない猛練習は『たすきメニュー』の3面

土浦日大での3年間、僕も怒られ褒められ、チームとは何かを教えられ、厳しい練習の中で強いメンタリティを育ててもらいました。シューターとしての自覚も芽生え、シュート練習は朝200本、夕方300本と毎日最低500本は打っていました。3ポイントシュートを打つことも格段に増えて、確率も上がっていったように思います。

練習メニューはいろいろありましたが、印象に残っているものを一つ挙げるとしたらコートの対角線ダッシュですね。フットワークを鍛えるための練習ですが、コートを斜めに走るので僕たちは『たすきメニュー』と呼んでいました。ウチの学校の体育館にはコートが3面あって、普段は1面を男子バスケ部、あとの2面を女子バスケ部とバレーボール部が使用していました。

だから平常のたすきメニューはコート1面を使ってやっているわけですが、女子バスケ部やバレー部のどちらかが試合でいなくなったりすると、2面使えるのでたすきメニューの距離も倍になるんですよ。最悪なのは両方のチームが揃って合宿なんかに行っちゃったとき。丸々3面のコートが使えることになり、当然たすきメニューの距離も3倍になります。

想像してみてください。コート3面の対角線と言ったら、ほぼ体育館の端から端ですよ。それをよーいどん! でダッシュして、先生が「よし」というまで走り続けるんです。あれはキツかった。相当キツかったです。おかげで脚力は鍛えられましたけど、練習前に「今日は3面空いてる」という情報が入ってきた時の「うわぁ……」という気持ちはいまだに忘れられません(笑)。

日本一を目指して入った高校ですが、結果的に優勝はできませんでした。最高成績は3年の茨城インターハイの3位です。でも、このインターハイは地元開催ということもあって忘れられない大会になりました。

まず2万人のお客さんが集まった総合開会式で選手宣誓をやらせていただいたこと。土浦日大は県内有数のスポーツ校であり、中でもバスケット部は新人戦と関東大会に優勝して負けなしだったのでキャプテンである僕に白羽の矢が立ったみたいです。緊張はしましたが、気持ちが良くて最高の経験をさせてもらったと思っています。

それともう一つ忘れられないのは能代工業と戦った準決勝です。そのときの能代工業には今のチームメートである内海慎吾がいて、優勝候補の筆頭でもありましたが、満員の体育館のほぼ全員のお客さんは僕らの味方でした。ものすごく大きな声援を送ってくれて、いいプレーが出たときは割れるような拍手が湧き起こる。あんな雰囲気の中で試合をしたのは生まれて初めてで本当に心が震えました。

残念ながら試合には敗れましたが、あの興奮は今でも思い出すことができます。応援がどれほど選手を勇気づけるものか、それを知ったのもあの時かもしれません。そうしたいくつかの貴重な経験ができたことも含め、土浦日大に進んだ自分の選択は正しかったと思っています。

申し訳なかったのはディフェンスが下手くそだったこと。土浦日大の武器の一つに『伝統のゾーンディフェンス』というのがあるのですが、ディフェンスが苦手な僕はその部分での貢献度は低かったと思います。自分のディフェンスにやっと自信を持てるようになったのは大学を出てプロになって3年目ぐらいの時なので、まだまだずっと先のことでした。

「俺より負けず嫌いかも」と思った唯一の男、正中岳城

青山学院大への進学を決めたのも自分自身です。早稲田大とどちらにするか迷ったのですが、優先するのはバスケットだったので、当時1部リーグだった青学を選びました(早稲田大は当時2部)。

大学に入って驚いたのは練習のメニューが高校までとは違って科学に基づいて作られていたことです。バスケット、ラントレーニング、ウエイトトレーニングと大きく3つに分かれ、まるで3つの部に所属しているみたいでした。

監督の長谷川さん(健志、前日本代表ヘッドコーチ)が自分の目指すバスケットを下敷きにして、トレーナーとじっくり話し合ってそれに必要なものを取り入れたメニューだったと思います。長谷川さんが目指すトランジションが早いバスケットは自分に合っていたと思うし、練習も人一倍やりました。

僕たちの代は将来有望な選手が揃っているという意味で『ゴールデン世代』と呼ばれましたが、たしかに竹内譲次(アルバルク東京)や石崎巧(名古屋ダイヤモンドドルフィンズ)、内海慎吾、阿部佑宇、井上聡人がいた東海大、竹内公輔(栃木ブレックス)と酒井泰滋がいた慶應大、太田敦也(三遠ネオフェニックス)と菊地祥平(アルバルク東京)がいた日本大などどこも力があり、リーグ戦もレベルが高い白熱戦が多かったような気がします。

青学大で相棒になった正中岳城(アルバルク東京)は兵庫の明石高校出身で、その高い得点能力は知る人ぞ知る存在ながら全国的には無名に近い選手でした。ものすごく負けず嫌いな男で、多分これまで僕が出会った中で「もしかすると俺より負けず嫌いかも」と思った唯一の選手です。

その正中と競うように練習して、お互いに良い刺激を受けたことはとても大きかったと思っています。大学3年の秋のリーグ戦で優勝しましたが、インカレでは東海大に敗れ準優勝。結局、一度も『日本一』にはなれませんでしたが、ハイレベルな戦いの中で切磋琢磨し成長できた4年間でした。僕たちの世代が主力となったユニバーシアード大会(2007年、バンコク)で世界の強豪チームに競り勝ち4位という成績を収められたことも忘れられない思い出です。

バスケット・グラフィティ/岡田優介
vol.1「友達とのバスケだけでは物足りなくて、夜間開放の体育館で大人と一緒に草バスケ」
vol.2「進学先の候補校にはすべて自分で足を運び視察、日本一になるために土浦日大を選択」
vol.3「地元開催のインターハイ、能代工を相手に『完全ホーム』に後押しされる喜びを知る」
vol.4「プロ選手になって10年、あの時に頑張っていた自分が今の自分につながっている」